ケータイ進化論 本当の「黒船」はこれから現れる

来年はついにiPhone日本上陸か、といわれており、Appleと組むキャリアはドコモか、ソフトバンクか、といわれている。iPhoneの参入は、パラダイス鎖国日本への黒船来襲ではないかとも言われる。だが、iPhoneもまた垂直統合型のクローズドな製品である。確かに今のケータイ業界に風穴を開けるかもしれないが、これまでのキャリア主導の体制を大きく揺るがすものではないだろう。これに対して、次に来るオープンな「黒船」の破壊力は風穴どころではないだろう。まだ間に合うかもしれない。その黒船に日本のメーカーが乗るチャンスも皆無ではないから…。


日本のケータイ業界の構造的な問題はいろいろ指摘されているが、実は、米国も日本のようにキャリアによる業界の支配が強い。日本のように携帯のブランドまでコントロールすることはないけれど、販売奨励金やSIMロックの問題が程度の差こそあれ存在する。その状況下で、自分がよいと思ったものを世に出すために、キャリアに対しても戦って主導権を握っていくApple社には敬服する。しかし、力関係に変化はあっても、垂直統合の枠組は存続したままである。

iPhoneよりも破壊的な黒船は、これから始まるオープンなプラットフォームの上で生まれるであろう。

先日は700MHz帯のオークションが行なわれましたが、グーグルがこれに応札しました。グーグルは電波が最後のボトルネックであることを見抜いて、FCCに「どんな端末でも使えるように電波をオープンにしろ」と要求し、FCCもこれを認めました。
池田信夫が語る、「ムーアの法則」と日本の経済(後編)

これは、ネットワークにつながる端末や利用されるアプリケーションを制限してはいけないという「オープン・アクセス」のルールのことをいっている。700MHz帯を落札するには、このルールを守らなければならない。Googleが実際に落札するかにかかわらず、このルールが加わっただけでもGoogleの目標は半分くらい達成したのではないかと思う。

無線インフラのオープン・アクセス化は、「ワイヤレス・カーターフォン」として提唱されてきた*1。これは、固定電話におけるカーターフォン(Carterfone)裁定―ネットワークに損傷を与えない限り、通信ネットワークに自由に端末を接続することを認めた裁定―を無線にも適用しようというものである。携帯電話市場はかつての固定電話のような独占ではない。しかし、キャリアの寡占状況の中で、新しい端末やアプリケーションの開発には大きな制限がかかっている。日本に比べたらまだメーカ主導で開発は進むが、それでも何をするにもキャリアのお許しが必要であるというのが実情だ。コロンビア大学のTim Wuはこのような現行体制がイノベーションを阻害していると指摘し、カーターフォン裁定の適用を推奨している。

この固定電話の自由化は、官僚や有識者委員会が「民はかくあるべき」と主導したわけでなく、イノベーターたちが戦いを挑んで得られたものである。この背景には1948年のHush-A-Phoneという消音型受話器、1968年のCarterfoneというコードレス電話を代表とした長い争いがあった。Hush-A-Phone側の訴えに、AT&Tは次のように反論した。

電話のサービス品質に責任を持たず、ただ製品の売り上げだけに興味があるような人たちの機器を勝手につなげたり利用したりされると、よい電話サービスを提供することは極端に難しくなる。
(Tim Wu, "Wireless Carterfone" International Journal of Communication, Vol. 1, p. 389, 2007 より)

今でこそこれはナンセンスだが、当時としては一理あったことであろう。AT&Tの技術者の多くも「そんなのとんでもない」と思ったのではないか。昔も今も、米国でも日本でも、「自由化は混乱をもたらし品質を下げる」という議論は登場する。この時のAT&Tも、事業を独占したいというのもあっただろうけれど、品質に対して「勤勉」だった部分もあろう。大組織の官僚的な体質と高品質を求める勤勉さとの融合は、日本固有の文化ではないようだ。日本との大きな違いは、それに戦いを挑むイノベーターがいたということ、そして何がイノベーションを阻害するかについて理解と信念があったというところだろう。FCCはAT&Tの反対を退けた。この方向性は1968年のカーターフォン裁定によって決定付けられ、端末機器の自由化が確立した。この自由化によって電話のモジュール化が進み、留守電やFAXやモデムなどが普及していった。

そして今ケータイの世界でも同じようなイノベーションが起きる場ができつつある。これもSkypeGoogleFCCに働きかけた結果である。携帯キャリアたちはもちろん反対していた。業界全体がひとつの「大組織」になっている国ではこうはいかなかっただろう。


Googleはケータイ・アプリケーションのオープンなプラットフォームとしてAndroidを公開し、お膳立てを整えつつある。このAndroidをソフトウェア単体でみると、単に携帯開発基盤が一つ増えただけとみえるかもしれない。確かに、日本にとって、ケータイ産業が現行体制のままでは、Androidは単に「開発費が安くなるかも」という程度の意義しかないかもしれない(今の開発体制ではそれすら怪しいかも)。

Androidの登場について、海部美知さんスマートフォンの市場は小さいと若干冷ややかである。

どうも私には「コップの中の嵐」「局地戦」のように見えてしまうのだ。昨日読んだ日経新聞に、シンビアンのCEOのインタビューが載っていたが、彼が開口一番「OSを搭載している携帯電話は、全体の7%に過ぎない」と言っており、私の印象もまさにそれが原因だ。日経新聞でも「世界の年間出荷十億台の携帯電話市場うんぬん・・」と2回も枕詞に使っているが、実際にこの話が適用されるのは、そのうち7%に過ぎない。「OS」と聞いた瞬間、「なんだ、携帯電話全体の話じゃなく、この狭いスマートフォン市場にひしめきあっている中に、もう一つプレイヤーが増えるのか・・・」と思ったのだ。

確かに電話屋さん的感覚からいうとその「局地戦」はあまりおいしく見えないかもしれない。それはたぶん正常な感覚なのだろう。でも、だからこそオープンにすることの意義が大きいのだ。これはまさに、今までの「電話屋さん」主導では限界があるということを示していると思う。

問題なのはAndroidか他のOSか*2という点でなく、誰でも簡単にケータイに参戦できる体制が整いつつあることだと思う。ケータイの場合は、基盤ソフトウェアをオープンソースにするだけでは不十分であり、ネットワークのオープン・アクセスが確保されて始めてオープンソースが大きな意味を持つ。誰でも自由にいろんなアイデアが試せる場ができて初めてケータイも真の意味で「ウェブ時代をゆく」ことになる。そしてその中から今の「スマートフォン」という概念を壊すようなものが出てくることを期待したい。


日本のメーカーは、米国市場に再挑戦し、オープンなプラットフォームの上でまず戦うべきだろう。なぜならそこはこれまでのケータイの概念を変えるようなイノベーションの場になる可能性を秘めているからだ。そして参加する権利は広く与えられている。日本でも、総務省がオープン化を検討しているが、産業界にオープン化を強力に推し進めるようなプレイヤーがいないので動きはにぶい。そのころでは多分遅すぎる。

日本の現状をみると、キャリア主導で季節ごとに新商品を(しかも各社同時に)出さなければならない日本市場にトラップされて、海外市場に打って出る余力がないというかもしれない。ここはむしろ、これまでの携帯開発の延長で考えないほうがよい。これからの携帯開発は、もはやクローズドな環境で作りこむものではなくなり、モジュール化された部品を使ってつくるようになる。やるべきことは、軍曹伝説で象徴されるような現在の開発とは全く異なるだろう。現在の開発部隊とは別に、「今のやり方は納得いかない」という少数精鋭を集めて今から試行錯誤していくべきだろう。けものみち的プロジェクトである。


つい想像してしまうシナリオは、日本のどのメーカーも様子見をしつつ、海外で立ち上がる新サービスを「日本はこれまでユビキタスを推進して来た。それに比べて技術的にたいしたことない。品質も低い」などといって無視しているうちに、気がついたら手遅れになっていた、というものである。そうなったときのインパクトはiPhoneどころではない。iPhoneは土俵に乗り込んで荒らしまわったとしても、その土俵自体をぶち壊してはいないように思う。だが、次は破壊的なイノベーションが日本のケータイ産業構造自体を無意味にしてしまうかもしれない。その時が本当の「黒船」到来であろう。それがどんたく、お祭り騒ぎだ。

2008年が日本のケータイ産業にとって有意義な年でありますように…。



付記:日本語での関連記事はこのあたりがまとまっています:

*1:Tim Wu, "Wireless Carterfone" International Journal of Communication, Vol. 1, p. 389, 2007 米国の携帯事情がよくわかりお勧め。平易な文章なので読んでみてください。

*2:例えばOpenMokoとか、これまでもオープンを謳ってきたOSは存在する。

「ウェブ時代をゆく」(2)ロールモデリング―「よいこと」を抽出する技術

ウェブ時代をゆく」が日本で発売されてからサンノゼの書店になかなか入荷されなかったので、それまでの間本書に関するネット上の記事や感想を読んでいた。結局、著者本人のこれまでのブログも含め、事前情報を仕入れた上で本書を読んだわけであるが、それでも実際に読んでみて新たな発見があった。ひとつはスモールビジネスに関することだが、もうひとつはロールモデル思考法である。

読前感としては、ロールモデル思考法の「何でもロールモデルにしてよい」という意味は「ただ、子どもが王貞治になりたいというのと一緒で、どんなにえらいものでも消費してしまえというのがこの考え方です。」(CNET記事)という程度(失礼)のものだと思っていた。が、読んでみると、その「消費」の仕方は自分の予想を超えていた。


ロールモデル(role model)とは、「(特定の分野で)よい行いの見本となる人物」のことをいう。典型的には、有名人(かっこよさの見本)、具体的な分野で成功した「偉人」(成功体験の見本)、会社の先輩(できる仕事の見本)などが対象となるであろう。これらの見本は、「こんなときはこう行動したい」という具体的な行動規範の集合を与える。しかし本書では、具体的な行動の見本としてのロールモデルを超えて、より抽象的な「在りよう」の見本として「まったく異質で荒唐無稽な対象」でもロールモデルたり得ると主張する。

ふとあるとき愛読書『シャーロック・ホームズの冒険』に没頭しながら、自分は「私立探偵の在りよう」に少年時代から心惹かれてやまなかったことを思い出した。そして犯罪捜査という「What」にではなく「私立探偵の存在の在りよう」に心惹かれていることに気づいた。(中略)その結果見えてきた自分の志向性とは、「ある専門性が人から頼りにされていて、人からの依頼で何かが始まり急に忙しくなるが、依頼がないときは徹底的に暇であること」だった。(p.122)

シャーロック・ホームズロールモデルだなんて素でいわれたら普通引いてしまうところだ。でもここでは具体的な対象がそのまま「よい行い」のお手本となるのではなく、抽象化された「存在の在りよう」に自分にとっての「よいこと」を見出している。シャーロック・ホームズはそれを特定のコンテクストで具体化したインスタンスに過ぎない。対象をコンテクストから剥ぎ取って、そこから「よいこと」を抽出する、それをもって梅田さんは対象を「消費」すると言っているのであろう。

これには、人が通常考えるであろうロールモデルよりもさらに「抽象化作業」を要する。このことはもっと強調されるべきであろう。ここでは、ロールモデルを抽出するプロセスを強調するために、梅田さんの手法を「ロールモデリングロールモデル化)」と言ってみよう。

「よいこと」を抽出するモデル化技法は、企業経営においてさまざまな形で見出すことができる。

  • ミッション(使命):例えば、Googleのミッションは「世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすること」である。その会社の「在りよう」としてどのような役割(ロール)を担っているかを抽出して言語化したものである。
  • コア・コンピタンス:競合他社に比べて、自社の強みは何か、それを抽出し言語化したものをコア・コンピタンスという。具体的な製品機能の差にとどまらず、もうすこし抽象化された「強み(よいこと)」が抽出されれば、そこから新しい開発戦略が見出される。
  • スタートアップ企業の事業再定義:スタートアップ成功の秘訣は「成功するまであきらめない」ことであるが、それはただ漫然と同じことを繰り返すことではない。うまくいかなかった場合に、自分のアイデア、自分の技術の「よいところ」を抽出してまったく別の製品、別の売り方として再生するということがよくある。

梅田さんも、コンサルティング業での経験を通じてこのようなモデル化技法を体感し、それと並行してロールモデリング法もよりシステム化され、確立されたのではないかと思う。


しかし、ロールモデリングと従来の企業経営のモデリングとの間には重要な違いがある。上記のものはすべて、自分自身の「よいこと」を抽出する「自己モデリング」である。これに対してロールモデリングは、自己モデリングでも世界モデリングでもない、その境界領域である点にその意義がある。


自己モデリングには限界があり、あまり突き詰めると危険である。まず、自分がまだ何がしかのものでない白紙の状態の場合、自己から何か抽出できるのか、という疑問がわくだろう。さらに、実際には「何がしかのもの」というのは程度問題である。どれだけ成長し、何かを達成しても、どんな地位を得ようとも、人は自分の矮小さに気づかされる時がある。自己を極限まで突き詰めていけば、いずれは「自分は何者でもない」という絶望に達してしまうだろう。どんなにえらくなろうとも、そこから逃れることはできない。これについては分裂勘違い君がいうとおりである。

じゃあ世界モデリングのほうはどうか。唯一神グーグル様が世界中の情報を整理し、「よいこと」が何かをわたしに啓示してくれるだろうか。グーグル様は生きるための答えにお導き下さるだろうか。分裂勘違い君がいうポストモダンはこれも否定する。要するに「世界に意味なんかない」のである。だからいくら世界をインデックスしてもそこからあなたの生きる意味なんて自動的に出てこない。むしろ、Googleは世界を整理しつくした挙句に、そこに意味なんかないということを人々に突きつけてくるだろう。それを拒絶し、自分の内面ばかりを見ても、やっぱりそこにも意味なんかない。

こんなことは昔は一部のインテリの優雅な悩みだったかもしれないが、ウェブは知を万人に開放すると同時に知の「病」をも世界に広めていくのではないか。

では、その虚無感を超えて生きていくにはどうしたらいいか。ひとつの可能性は、自分が感じ取るものを基点とすることだろう。ときめいたりわくわくしたりする感覚、あるいは憤ったり恐れたりする感覚。どうせこの世に意味はないのなら、それを肯定してみるしかないだろう。自分という存在に意味がないのなら、感覚の総体としての自分に立ち返ってみる。何かに心を惹かれる、まずはその感覚を大切にする。そしてその感覚を頼りに世界を再定義し、自分を再定義し続ける。それが「直感を信じ、好きを貫く」ということではないだろうか。*1


「好きを貫く」とは必ずしも「プログラミング」とか、何らかの具体的なものに固執することではないと思う。だから、例えば本書に出てくるまつもとさんや石黒さんをロールモデルとするとしても、別にオープンソースプログラマーとして食っていく必要はない。そうでなくて、彼らのどんな「在り方」に自分が心を惹かれているか、そこからどうやって自分にとっての「よいこと」を抽出するかが問題なのだ。それは客観的に与えられる「ほんとうの彼ら」でもなければ、自分の内面にある「ほんとうの自分」でもない。


けものみちを生き抜きながら体得した「人を褒めろ」「直感を信じろ」「好きを貫け」という梅田さんの言葉は、近代的「自己」が崩壊したからこそ意味を持つのではないか。

ところで、日本の若い人たちのブログを読んで思うのは、「人を褒める」のが下手だなということである。つまらないことで人の揚げ足を取ったり粗探しばかりしている人を見ると、よくそんな暇があるなと思う。もっと褒めろよ、心の中でいいなと思ったら口に出せよ、と思うことも多い。「人を褒める能力」とは「ある対象のよいところを探す能力」である。(p137)

これは単にポジティブシンキングの勧めではなく、さまざまな対象から「よいこと」を抽出する技術の重要性を説いているのだと思う。その感覚を研ぎ澄ますためにも、もっと人を褒めろよと。

ウェブ時代をゆく」は、ウェブ時代を生きる意味なんて教えてくれないけど、ウェブ時代を生きる術を伝えようとしているのだ。

*1:だから分裂勘違い君は彼なりに好きを貫いているようにみえるのだけれど。

国家プロジェクトをやめてみる(2)日本という「大組織」

前回、「ウェブ時代をゆく」で梅田さんが提案する「何か大切なものをやめてみる」を国家プロジェクトに適用し、企業側から国家プロジェクトの受託をやめてみることを提案してみた。国側については、

官の側にも少し申し上げたい。

  • 研究的なものは、民間企業に対しても科研費のような自由公募型にすべき。
  • とくに基礎技術に対して、産学の垣根を取り払って公募・助成すべき。
  • 一方、産業応用までは官主導でやるべきではない。ビジネスチャンスは企業が自分で切り開くべき。

として、これは民間企業がやめてみるより大変だと述べた。実際、これは省庁の現場レベルでできる話ではなく、省をまたがった改革が必要になる。

自分は今まで産と学の中の人になったことはあるが、官の内情については知っているわけではない。やめてみるメソッドを適用する前に、まずは資料をもとに現状認識をしてみたい。

まず経産省の情報通信関連に話を絞って、公開されている資料からその構造を見ていこう。経済産業省商務情報政策局による平成19年度情報政策の概要によれば経済産業省平成19年度情報関連予算の中心に「IT革新を支える産業・基盤の強化(279.1億円)」があり、その中に

  • 技術開発(ハード・ソフトウェア) 179.6億円
  • 情報大航海プロジェクト 45.7億円
  • セキュア・プラットフォームプロジェクト 9.9億円

などが含まれている。このうち、「技術開発」はいくつかの項目に分かれており、予算規模的には半導体関連が大きい。この「技術開発」のほとんどは独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)に一旦交付され、NEDOが委託先を公募・選定する*1NEDOとは、歴史的にはオイルショック後の石油代替エネルギーの開発を推進するために設立された期間であり、その後産業技術全般の研究開発が業務に加わった。研究開発設備は保有せず、委託によって開発を推進する。つまり、公的研究資金の配分機関である。

NEDO平成19年度予算*2を見てみると、研究開発関連業務の予算は

(1)提案公募事業(大学若手研究者等への研究助成)〈59億円〉(18年度実績535件)
(2)中長期・ハイリスクの研究開発事業(ナショナルプロジェクト)〈1253億円:131プロジェクト〉
(3)企業の実用化開発の支援〈168億円〉(18年度実績421件)

に分類される。この(2)が、いわゆる国家プロジェクト(の一部)である。

ではこの研究開発事業がどこに委託されるか。公募情報にある公募結果をみると、「財団法人」「技術研究組合」の○○開発機構という委託先に気がつくと思う。これらの機構は、複数の企業が共同してプロジェクトを円滑に行うために作られた組織である。たとえば、技術研究組合 超先端電子技術開発機構(ASET)*3は、半導体関連中心に国家プロジェクトを受託する組織である。事業費のほとんどがNEDOからの委託で成り立っており*4、エレクトロニクス系の企業37社が参加している。37社には主要企業のほとんどが入っているのではないか。

プロジェクトが大規模で複数年にわたるものになると、こういう組織がなければ立ち行かないのは理解できるが、主要企業のほとんどが参加した組合が委託先だといわれると、公募といってもそんなに大きな競争にはならないよなあと感じてしまう。まあ、これをもって「談合」だといわれると、たぶん当事者は心外だろう。確かに、狭い意味での談合である、入札価格を吊り上げるための工作とは異なる。これ以外の体制でやることは困難である、とその必然性を説くであろうし、それは与えられた前提条件の下では合理的な判断かもしれない。だが、その前提条件がそもそも問題なのではないか。

つまり、プロジェクトの委託単位がが大きすぎる、あるいは企業単位が事業に比べて小さすぎるのが問題なのではないか。

まず第一に、委託単位をもっと小さくできないのか。大規模プロジェクトといっても、それを受託した技術研究組合の中で分担は細分化され、結局は各企業や研究機関が個別研究をすることも多いと思う。ならば、その細分化されたものを公募すればまだ競争も起こるというものだ。もちろん、どうやってプロジェクトのテーマを企業の身の丈サイズまで細分化するのかという問題が残る。そもそも官の側でそんなに細かいところまで決めるべきではないと自分も思う。

であればこそ、プロジェクト型ではなく、提案型の自由公募にすべきじゃないか。そうすればより競争的になるし、マッチングファンドとして企業側も出資するようにすれば、企業も本当に自分に必要なものを考え抜いて提案するだろう。これでもまだ主要企業全部が協調するようなことがあれば、それこそ談合と言われても仕方ない。

第二に、本質的に細分化できない統合的な大規模プロジェクトもあるんじゃないか、という反論に対しては、そんなプロジェクトはやめるべきと答えたい。

すくなくともソフトウェアに関しては、大規模プロジェクトによる研究開発が成り立たないのは歴史的にほぼ明らかだろう。何か本当に使えるものを新しく生み出そうとするならば、少人数で始めるべきだ。

でも半導体の場合は違うと言うかもしれない。本質的に大きな投資が必要で、細分化できないのかもしれない。そうであるならば、これは逆に「企業単位が事業に比べて小さすぎる」ということではないか。各社が淘汰されずに細かく市場を分け合っているから大きな投資ができないことがそもそもの問題なのでは、ということだ。日本の半導体産業も近年はいろいろ統合がすすんでいるが、それをこれまで遅らせてきた原因に国の政策があったのではないか。本来は、ある事業ドメインの市場拡大・成熟化に伴って企業のほうも自然と巨大化するべきところを、国家プロジェクトによって淘汰を阻害してしまったとすれば、経産省が日本の企業の国際競争力を高めようとしてやったことは、結局は国際競争力の低下に影響したことになる。

国がやるべきことは、大きな市場がすでにある分野の継続的な大規模投資ではなく、まだ市場が確立されていないような、もっと新しい産業の芽になるような分野について、探索的で基礎的な研究開発を促進するべきではないのか。


最後に、ASETの研究開発実施体制の図を見ていただきたい。このASETの下に37社がぶら下がっている図を想像してほしい。交付・委託・再委託というネットワーク図を見ると、ITゼネコンの下請け構造を思い出す人も多いのではないか。最近のブログでは、大手IT企業を頂点としたゼネコン型の「大組織」の問題をよく目にする。だが実際は問題はそれどころではない。日本全体が官を頂点とした大組織になっているのだ。この体制図は研究開発という一面ではあるが、そのことを象徴しているように思われる。

ウェブ時代をゆく」では、大組織か小組織か、自分はどちらに向いているかという議論があるが、そういう問題以前なのである。日本全体がひとつの大組織となっている中で、どれだけの人がそれを拒否して生きていけるだろうか。

官僚は与えられた条件下でベストを尽くすしかない。変えなければならないのはその前提条件の部分であろう。今の状況がこのまま変わらないとすれば、それは官僚の怠慢ではなく政治の怠慢、つまりはわれわれ国民の怠慢なのだと思う。梅田さんのオプティミズムを一服の清涼剤とし、池田さんの毒舌をガス抜きにして、それで何もしなければ事態は何も変わらないかもしれない。

*1:一方、情報大航海プロジェクトやセキュア・プラットフォームプロジェクトは経済産業省が直接委託を行う「直営」プロジェクトである。

*2:官の資料はPDFばっかりでウェブで引用しにくい…。

*3:なんですぐに「超」をつけるのだろうか…。「超先端」って?「超」と「次世代」をつかったら負け、とするといいんじゃないかといつも思う。

*4:NEDO経由以外にも、上記のセキュア・プラットフォームプロジェクトを直接受託している。

「ウェブ時代をゆく」(1) 儲からない仕事がしたい

梅田さんの「ウェブ時代をゆく」を読んで、シリコンバレーに来たころを思い出した。911テロの直後に渡米し、それからしばらくしてのことである。こちらにきて将来的に何がしたいのか妻に問われ、こう答えたのだった。

「儲からない仕事がしたい」

妻にはずいぶんあきれられてしまった。

まあ確かに、それならなぜ大学を辞めて資本主義の最先端のようなところに来るんだ、と普通は考えるだろう。でもこれは、その当時自分なりにネットの行き着く先を考えてのことなのだ。ネットが今後発展していけば、儲からない仕事ができるようになる。ネットが未発達な今は、儲からない仕事ができる社会を作るため、技術的貢献をしたい。技術革新で社会を変えていきたいと思うならシリコンバレーが理想の地だと考えた。

その後、しばらくしてから、自分のいう「儲からない」、という意味がスモールビジネスとベンチャービジネスの違いのことだと知った。

本書の第二章にも登場するクレイグスリストのこともこちらで知り、大変共感もした。

「経済のゲーム」という観点からは、クレイグのしてきたことは「巨大な機械損失」に見える。しかしクレイグはインタビュー(米「BUSINESS 2.0」誌、二〇〇七年五月号)に答えて、自分たちは「素晴らしい信頼の環境」を作ったと自負する。事業上の利益を追求しすぎるとコミュニティの「信頼」を失うとクレイグは確信している。(第二章p.74)

大学にいたころに参加型の映画評サイトCinemaScapeを作ってから今年で10年になるが、大学を辞めてからも非営利サイトとして存続している。どう存続させるかに関しては、事業化する可能性も、事業としてどこかに移管することも考えた。コミュニティにとってベストなビジネスモデルは何か、いろいろ自分なりに検討した。

しかしそこで、クレイグと同じように矛盾に突き当たった。コードを書いたという意味では、CinemaScapeは自分が作ったシステムではある。しかしその上に、参加者が映画評を書き、映画のデータを充実させ、運営のポリシーや新機能の使い勝手などを議論し、そこに交流の場ができた。CinemaScapeを存在させているのはコード(だけ)ではなく、このコミュニティなのだ。それはすでに自分だけのものでない、利用者の誰か一人のものでもない、パブリックな何かだと思った。しかも、それは皆が集まる「場」というだけでもない。今はブログが普及しているので容易に理解してもらえると思うが、CinemaScape (あるいは今で言うところのWeb2.0的なユーザコンテンツ)は匿名掲示板と違って、単に「場」というだけでなく「もう一人の自分」なのだ。

時はインターネットバブル崩壊のときである。その中で、拡大路線を続けて崩壊していったコミュニティサイトをみた。会社の事業の失敗は、参加者からみれば、「もう一人の自分」が突然失われてしまうことを意味するのだ。今から5〜6年前の当時の技術的環境から見ると、コミュニティサイトを事業化するには設備、開発、運営体制などにかなり投資しなければ、安定したサービスを継続すとはできず、それに対して経済的なリターンは明確でなかった。ベンチャー的なやり方とコミュニティ的なものとはそぐわないのではないか。そう思うようになった(第七章の「スモールビジネスとベンチャー」(p219)も参照されたい)。

このギャップを埋めるには、コミュニティを支えるインフラストラクチャをもっと成熟させなければならない。だから自分はもう一人のクレイグになるよりも、たくさんのクレイグが生まれるような環境の構築に力を注ぎたい。その考えが自分の研究への動機につながった。

これを一言で言うと、「将来儲からない仕事ができるようにシリコンバレーに来て研究してます」ということになるんだけど…。

さて、本書の第一章において、梅田さんは、Googleのような企業がいかに成長しようとも、ネットビジネスの直接の経済規模はリアルな世界の経済規模に比べて小さく、そこだけを見ていると「もうひとつの地球」の本質を見誤ってしまう、と説いている。その視点に同感する。

「ネットといえばイコール、ネットビジネスだ」と認識し、ネットビジネスの動きだけでウェブ進化の意味を判断しようとすると、その本質を見誤ってしまう。それが明らかになりつつあるのが、ネットを巡る現状ではないかと思う。(第一章p48)

そもそも、検索と広告は本質的には矛盾を抱えているんじゃないか。そんなことをここ10年ほど思っている。つまり、(広い意味での)検索の性能が理想的なまでに高ければ、広告は成り立たなくなってしまうということだ。それゆえ、検索連動広告はほんとうに「奇跡的な組み合わせ(p41)」だと思う。だがそれが成り立つのは、原理的には検索の不完全性のためである。検索結果にはない何かがあるから、ユーザが広告部分をクリックする。でも検索結果自体の質が悪ければそもそも人は検索しない。その微妙なバランスの上に成り立っている。例えば今の検索技術は「○○が知りたい」のか「○○がほしい(買いたい)」のかといったユーザの目的を区別できていない。目的志向の検索性能がより高まってくると、検索結果自体が「○○がほしい(買いたい)」という要求にも答えられてしまい、ユーザにとっての広告情報の価値(つまり広告主にとっての検索スペースの価値)は相対的に低まってしまう。検索性能が理想的に高くなるのは(人工知能が完全に解決されない限り)当分ないだろうから広告が無意味になることはないだろうが、技術の進歩によって将来的に衰退していくべき、あるいはもっと「別の何か」に収斂されていくべきものなのではないか。

この話は広告というモデルに限らない。そもそも、ネットとでかい儲け話というのは本質的な部分で相性が悪いように直感的に思う。経済の専門家でないのでおおざっぱな言い方しかできないが、結局のところ、大きな儲けがどこかに生まれるには情報の不完全性が必要とされており、そしてネットの究極の目標は情報の不完全性の解消にあるのではないかということだ。

現実的には、ネットが発展していく過程でGoogleのように成長するベンチャーもまだ現れるだろうが、そこが本質ではないように感じる。スモールビジネス的なものの拡大にこそウェブの行き着く先があるように思う。

ウェブ進化は、経済や産業に直接的に及ぼすインパクト以上に、私たち一人ひとりの日々の生き方に大きな影響を及ぼすものなのである。「経済のゲーム」のパワーで産業構造がガラガラと変わるのではなく、「知と情報のゲーム」のパワーで、私たち一人ひとりの心のありように変化を促していく。「もうひとつの地球」の本質はそこにあるのだ。(第一章p50)

ウェブ時代を同時代的ににとらえた上で、今を生きるための提言として、梅田さんの言うことに共感する。だがより歴史的な観点でとらえると、将来的にこの変化は「心のありよう」にとどまらないと思う。スモールビジネスという選択肢をより豊かにしていくことで、結果的に産業構造にも大きな変化をもたらすのではないかと考えている。「経済のゲーム」のルールは金融技術的なイノベーションと情報技術的なイノベーションの兼ね合いで今後も変わっていくだろう。その過程で「ベンチャー的」だったものが「スモールビジネス的」になっていく*1。それは著作権知財権のあり方を変え、組織のあり方を変えるだろう。

高く険しい道のふもとあたりでもがいている間に、こちらに来たころのことなんて忘れてしまいがちだっただが、この本を読んで、初心を思い出すことができたことに感謝したい。今自分が進んでいる道をもう一度振り返り、そしてまた前を向く。この道の行き着く先、そこにあるけもの道のために、今から仕込んでいかなければ。

*1:日本に限っていえば、まだ周回遅れの感はあるが。

国家プロジェクトをやめてみる

はじめに:筆者の勤める研究所の親会社は日本の大手ITベンダーのひとつですが、ここに書くのはあくまでも筆者個人としての意見です。ですが、会社の、さらには日本のIT全体の長期的な発展を願うものとしての一般論をここに発言するしだいです。

「やめてみる」シリーズとして、やめてみるメソッドを是非適用してみたいものがある。国家プロジェクトだ。
ただし、

  • 国家プロジェクトやめてみ、といっても発注側(政府)と受注側(企業)と立場があるが、今回は企業側にたって、「やめてみ」と提案してみたい。
  • 国家プロジェクトといってもあくまで研究プロジェクトのことであり、政府が使うITシステムの受注といった話とは異なる。
  • 情報通信系の話で、ライフサイエンス系など別分野は違うかもしれない。情報通信系の中でも、主にソフトウェアの研究開発に議論が偏っているかもしれない。

また、最近で言えば『汎用京速計算機』の是非が池田氏のブログで話題になっている。彼の考えには大枠で賛同するが、どうしても個別論になると、「ベクトル型プロセッサに未来はあるか」といった話に陥りがちなので、ここはひとつ、国家プロジェクトというものを原則的にやめてみよう、と極論してみる*1


文部科学省科学技術政策研究所によるレポート「科学技術の状況に係る総合的意識調査」(2007年10月)(pdf)(via りもじろうさんの記事)をみてみると、「世界トップレベルの成果を生み出すために、どのような研究開発資金を拡充すべきか」についてのアンケート回答がある。

大学の回答者(137人): 自由発想(53%) 基盤経費(29%) 政府プロ(9%)
公的研究機関の回答者(30人): 自由発想(40%) 基盤経費(27%) 政府プロ(20%)
民間企業の回答者(51人): 政府プロ(43%) 自由発想(31%) 基盤経費(14%)
・政府プロは「政府主導の国家プロジェクト資金(非公募型研究資金)」、自由発想は「研究者の自由な発想による公募型研究費(科研費など

)」、基盤経費は「基盤的経費による研究資金(運営費交付金など)」を意味する。
p.9 図表2-7 世界トップレベルの成果を生み出すために拡充する必要がある研究開発資金

民間企業の回答者のうちどれだけが情報通信系かはわからないが、民間企業において、国家プロジェクトの資金をどれだけ希望しているかがわかる。それだけ大事な資金との認識があるわけである。でも、これをやめてみよう。それも世界平和とか公共の福祉のためでなく、会社の利益のために。

そもそも、このアンケートで「世界トップレベルの成果」というのが(国家プロジェクトにとって)何を意味するのか自明ではないけれど、大きく分ければ、(1)アカデミックな意味での世界トップレベル(2)世界的インパクトを持つ産業応用の実用化、が考えられるだろう。ただし経産省プロジェクトとしては、第5世代コンピュータプロジェクト*2以降は(1)をあまり目指していないようだから、情報通信系における国家プロジェクトで目指す成果は(2)ということになろう。でもこれは、すごく象徴的に言えば、グーグルを生み出す、みたいな話である。それが不可能とまでは言わないが、官主導による弊害のほうが大きいのではないか。


経産省のIT関連プロジェクトが典型的だが、ITベンダー(あるいは世に言うITゼネコン…)大手三社を官が取りまとめて行う、その体制にまず問題がある。具体的なことはこの場に書かないが、三社合同の典型的国家プロジェクトにたずさわる人たちを傍で見てみると、彼らが疲弊していく様がわかる。

まずなんといっても、会社間のすりあわせに多大な労力をとられている。

共同プロジェクトをはじめるにあたって、大目標を個別の目標にブレイクダウンし、どの会社がどの部分を担当するかをつめていく。もちろん企業にとっては、自分の得意分野にもっと投資をしたいわけだから、自分の好きなものを盛り込みたいというのは自然である。結果的に全体をみると、出来上がった絵はひどくいびつなものになりがちである。主導する側として官が本来の目標にあわせて全体像を調整するように努力されていると思うが、そもそもプロジェクトの体制に無理があるんじゃないか。個別の基礎技術を分担して研究するならともかく、全体として実用化を目指すというのであれば、最初からきれいに絵がかけるなどと考えないほうがよいだろう。

プロジェクトが進むにつれて、当初の思い通りには行かない点が明らかになってくる(それを明らかにするのも研究のうちだ)。一企業内の研究プロジェクトであれば、「会社の将来の利益にどう結びつくか」という大原則があるので、抜本的な見直しも可能だが、国家プロジェクトとなると、その落としどころを見つけるのに多大な労力がはらわれる。ときにプロジェクトの形を保つために本末転倒に陥りがちである。*3

かように国家プロジェクトとIT系研究開発とは筋の悪いものになっている。実現すべきものがもっと明確にわかっているシステム開発でもウォーターフォール的な大規模開発は困難なのに、研究開発でそれをやったらうまくいくわけはなかろう、という話である。


でも、企業側にしてみれば結局金が落ちるんだからいいじゃないか、と思うかもしれない。納税者側にとっては大変な無駄遣いだけど、ITゼネコンはそれで得しているんじゃないの?という批判もあるだろう。そしてそう批判されても仕方ない面もある(でもそれは、発注(政府)側に対する「国家プロジェクトをやめてみ?」として別に論じたい)。

ただ、これは企業側にとっても損失なのだ。政府のITシステム開発受注といった話と違って、これは研究開発である。国家プロジェクトの多くはマッチングファンドで、企業側も予算を出しているし、そしてなによりも研究者・技術者をプロジェクトに投入しているのだ。彼らを別のことに従事させる機会を損失しているのだ。

しかも上記のような国家プロジェクトを繰り返していると、研究者・技術者たちのモチベーションは下がっていくと思う。官僚的な業務遂行能力は鍛えられるかもしれないが、研究、あるいはものづくりにある知的興奮が不足しているように見える(当事者の人、いかがですか?)。*4


本来、企業の研究開発というのはその企業の将来を切り開く高度に戦略的な投資事業だと思う。それを官主導で行うことによって、その進路を大きくゆがめられてしまっているのではないか。昔のように、日本が経済的に弱い国で、目標が富士山みたいに明確な山を登るというものであれば、官主導に企業がまとまるのも悪くなかったと思う。でも今は状況がぜんぜん違っている。

IT分野でイノベーションを起こすには、もっとランダムさが必要だ。


本来企業側にとって見れば、各プロジェクト案件について、会社の将来のためによいことか悪いことか判断して是々非々で決めればよい話ではある。プロジェクトによっては、その資金が本当に会社の発展に役立つこともあろう。だけど、じゃあそんな判断ができるか、というと難しいと思う。

梅田さんが『ウェブ時代をゆく』で「書かなかったこと」、彼の「やめてみる」決意を参照してほしい。

それで、僕は6年前、40歳を超えたときに、「年上に一切会わない」と決めたんです。

年上の人に会わない。一切会わない。かなり厳しい原則だ。でもこれを、この人は若い発想を持っているから会う、この人は親父臭いから会わない、なんてやっていたら、最初の決意は日々のしがらみの中でどんどん形骸化していくだろう。それと同じことだ。経営判断していくにも色々しがらみはあるし、目の前の研究資金の機会をみすみす逃すなんて、相当な決断が必要だ。

そこで「やめてみるメソッド」です。国家プロジェクトでテンテコ舞うのをやめてみよう

予算が厳しいのはよくわかっている。でもだからこそ少ない予算をどう投資すべきか、必死に考えるべきだ。


別の機会に詳しく論じたいと思うが、官の側にも少し申し上げたい。

  • 研究的なものは、民間企業に対しても科研費のような自由公募型にすべき。
  • とくに基礎技術に対して、産学の垣根を取り払って公募・助成すべき。
  • 一方、産業応用までは官主導でやるべきではない。ビジネスチャンスは企業が自分で切り開くべき。

ただ、官僚組織でなにかを「やめる」というのは民間企業で何かをやめるのよりもっと大変で、時間のかかることだと思うので、まずは企業側がやめてみることが必要なのではないか。自社の長期的な利益のために。

*1:ただし、ここでの議論は文科省プロジェクトよりは経産省プロジェクトが主に念頭にある。

*2:ちなみに第5世代コンピュータプロジェクトは、アカデミックな成果をそれなりに出したと思う。まあ一番の成果として残ったのは、大学の先生を企業から輩出したというものなので、通産省(現経産省)的にうれしかったかは別の話だが。

*3:ところで、こんなことを書くと、官側が悪代官として企業を支配している様なイメージを想像するかもしれないが、そんなことはなく、個人個人はとても知的でまじめな人たちである(知る限りはですが)。みんな良かれと思ってやっている。誰かを悪人にすればよいものではなく、要は構造的な問題なのだと思う

*4:企業がこのような国家プロジェクトに依存していくことになると、ポスドクの就職先としてIT企業の研究所に活路は見出せないだろう。少子化の影響で大学のポストはこれ以上増えないとすると、日本のドクターは本当に大変だなあと思う。

日本語論文をやめてみる

学生のころ読んだ中川いさみの4コマ漫画「クマのプー太郎」にこんな作品があった。

クマのプー太郎が暇そうに寝ている。
「君は暇そうでいいなあ、僕なんかてんてこ舞いだよ」と、その脇でテンテコ、テンテコ踊っている男。
プー太郎が一言、「そのテンテコ舞うのをやめてみ」
「はっ、うそのように暇になった!師匠と呼ばせてもらうよっ!」

神発言である。
以来、何度この言葉を思い出したことか。

梅田さんとクマのプー太郎を同時に語るなんて思っても見なかったけど、「やめてみるメソッド」について。

まず、『ウェブ時代をゆく』に

それも自分にとってかなり重要な何かを「やめること」が大切だ。

というとおり、重要なものをやめてみるわけだが、重要なだけあって「やめない理由」はいくらでも思いつく。けれど、そこをあえて「やめてみ」と書いてみよう、ということで、極論をお許しいただきたい。できればそれを間に受けて、勘違いにも本当にやめてしまうことがあれば幸いである。

今回取り上げたいのは、日本語の技術論文である。日本語で論文を書くのをやめよう。

これは情報系の学会に限った話かもしれない(他は知らない)。しかし、なんでそんなに日本語の論文を書くのだろうか。学問の中には日本語で書く必然性があったり、その学問を学ぶものは本質的に日本語が読めることを前提にできたりするものもあるかもしれない(日本語学とか?)。でも情報系の論文を日本語で書く意味がわからない。情報系の学問にかかわっている人は世界中にいて、その大多数に何かを伝えようとすれば英語で書くしかない。それでも日本語で書く理由は、誰かに伝えるためでなくて、本数を書くことだけに意義があるとでもいうのだろうか。

英語だろうと日本語だろうと、書く人の勝手だというかもしれない(書かないよりましだろ、とか)。が、日本語の論文誌を維持するために、査読者や編集委員など結構な労力がかかる。情報処理学会、電子情報通信学会、日本ソフトウェア科学会、人工知能学会。*1 かなりのエネルギーを使って、日本でしか読まれない論文を生産している。

日本の研究コミュニティを活性化するために、ローカルな情報の流通も大事で、そのために日本語も大事だ、という意見もあると思うが、それなら研究会で十分であろう。日本語での研究会までやめろとは言わない。

日本の外に出て6年ほどたつが、外から見るとまったく日本が見えてこない。その反対にこの6年で英語の論文へのアクセシビリティは格段に向上した。論文の参照関係はそのままウェブとなり、そこから手繰っていける論文とそうでないものとでは読まれる可能性は大きな差がある。不勉強で申し訳ないけれど、日本語の論文を読むこともなくなってしまった。ましてや日本語を知らない人から見れば、そんな論文は存在しないに等しい。

国際学会で、なんでこんなに日本人の発表が少ないのだろうか。研究者として劣っているとは思わないのだけれど。

学会にもよるだろうが、そもそも日本からの投稿が少ないようだ。

国別投稿数ランキングを開会のセッションで発表することがよくある。今年、データベース系の学会であるSIGMODに参加したときにも、国別ランキングを見る機会があったが、中国・韓国・シンガポールはあっても日本がみつからなかった(日本から投稿0件ではないことは知っているけれど)。日本が「その他」に含まれてしまったか、自分の見落としかもしれないけれど、いずれにせよ日本の目立たなさは常に感じられる*2

日本の内弁慶度(国内で元気な割に国際学会であまり目立たない)の高い領域としてSIGMOD(データベース系)、SIGIR(情報検索系)、CHI(ユーザインターフェース系)といった国際学会があるが、これらの学会に関しては、採択される論文の傾向に偏りがあるという指摘を日本人から時々耳にする。確かに、上記のそれぞれの学会で、通りやすいネタ、通りやすい演出法はあるように思う。最近数が増えているアジアのほかの国々はそういうところを狙って物量作戦をしているだけじゃないか、自分はもっと志が高いのだ、という見解もあるかもしれない。が、だからといって引きこもっていてはどうにもならないだろう。*3

もし採択傾向に偏りがあって、日本の研究コミュニティが疎外されていると思うのであれば、プログラム委員とかで日本の研究コミュニティからもっと影響力をだしていかなければならないんじゃないか。「こういう点はもっと評価されるべき」ともっと声をだすとか。日本の大学の先生方におかれては、そういった国際の場でもっとご活躍していただきたい。忙しくてそれどころではない、というかもしれない。もちろんお忙しいのは存じ上げている。

そこで「日本語の論文をやめてみ」である。

そしてその時間を外に向けてほしい。

日本の学会にしてみれば、日本語論文をやめるのには勇気がいるだろうと思う。英語論文だけにしたら、とたんに存在意義がなくなってしまうという危惧もあるかもしれない。じゃあ論文誌もやめれば、と思うんだけれど。

「はじめる」だけでなく「やめる」というのが業績にカウントされるといいのだけれどね…。

*1:日本を出てから、情報処理学会以外は全部やめたので現状をよく知りませんが…。

*2:もちろん、無いことを「感じ」られるのは自分が日本人だからで、他の人にとっては意識にも上がらないわけだ。

*3:そもそもネタや演出以前に、日本人の英語論文の文章のまずさもある。他の学問はともかく、情報系は「問題設定」が命だ。測定データを見せるだけで説得できるということはほとんどない。何を問題と捉えていて、それをどう定式化するのかをはっきりと示さなければならない。それなりの文章力を必要とするのだ。日本からの論文には、イントロダクションを読んで、結局何が言いたいの?というのが多いように思う。

「やめてみるメソッド」

梅田さんの『ウェブ時代をゆく』の本自体はまだ未読だが、CNETの記事を見て、「何かをやめてみる」というメソッドはいいんじゃないかと思った。

この本の感想を見ると、「わくわくした」とか「元気が出た」とか書いてあります。一服の清涼剤としてこの本を使うのも十分なんですが、それを超えて水を飲むような読書のための本として使ってもらうためには、何か絶対にやめないといけない。大事なことをやめないとこの本のような何かはできない。

 これから家に帰るまでに決めなきゃいけないわけじゃないけど、直感って大事だから、できれば決めていただきたい。それをやって初めて、この本は完結します。
「たいしたことない自分」だから、本を書いた--梅田望夫氏講演:後編 - CNET Japan

好きを貫く、といっても本当に今やっていることが「好き」なのか、明確にわかっている人は少ないんじゃないだろうか。また、自分が好きなものがわかっていたとしても、それを追求するのに今の方法でよいのか、それも簡単にわからないと思う。少なくとも自分自身はそんなに何でもお見通しではないので、いろいろ迷うことがある。

だから好きを貫いて自分の道を切り開くにしても、ただがむしゃらに前へ前へと進もうとするだけでなく、回り道をしてみたり、ちょっと引いてみたりすることは必要で、何かをやめてみる、というのはひとつの手法だと思う。

世の中がひとつの富士山であったならば、上り坂を行き続ければいつかは頂上にたどり着く。たどり着かなくても、頂上から見て何合目ということがいえる。でも実際にはもっと地形が複雑だったりする。山あり谷ありだ。そのような地形で常に上り坂を行こうとすると、途中のちょっと小高い丘で行き詰ってしまう。そこで上り坂は終わりだ。そこから一旦坂を下ってみれば広いところに出られるかもしれないのに。

そんなわけで、いろいろ最適化アルゴリズムが考案されていて、ひたすら改善を繰り返すだけでなく確率的にランダムな行動を取り入れたりする。たとえばシミュレーテッド・アニーリング(焼きなまし)法は、若いうちはやんちゃをして(せっかく登った山を下ってみる)、歳を経てだんだん無茶する確率を減らすといった感じの最適化手法だ。ひたすら山を登る方法に比べると、決断の繰り返しの数は必要になる。まあ、それだけ流動的な人生となる。

どうも日本全体が官僚的なシステムになっていて、富士登山は得意だが、登った山を降りることができず、山が沢山ある時代には閉塞感に陥る、というのが現状に見える。

そんな中では、最適化問題の複雑さに絶望するのではなく、「最適解」なんてそもそも有限の時間に探し出せないと割り切って、気を楽にするといいんじゃないか。むしろ、山あり谷ありで探し出すプロセスそのものを楽しみにするといいと思う。*1

梅田さんは人生に意識的に戦略的だから、彼の「やめてみる」事例(年上の人には会わない)をきくとそんなに確信的にできるかな、と感じてしまうかもしれない。まあそんなに思い込めないよね、なかなか。まあそこは、確率的なものでしかないと割り切って、(許容できるリスクの範囲内で)勘違いでも何でもやってみるのがいいんじゃないだろうか。梅田さんが直感を大切にしろというのはそういうことなんじゃないか。

なかなか人間は渦中にいると自分が何に囚われているのかわからないもので、やめてみてはじめて、「何でこんなことにとらわれていたのだろう」、と気づかされることがある。逆に、失って初めてわかる有難さ、みたいのもあるが…。ま、山はいくつでもある!

そんなわけで「やめてみる」メソッドお勧め。

せっかくのおすすめメソッドなので、自分の周辺にある諸問題について、「思い切ってやめてみては?」と提案する、「やめてみる」シリーズでも書いてみようかと思う。

*1:そういえば、シリコンバレーではすべてこんな調子かも…