御用学者と呼ばれて

自分の理解が正しければ(先生はもう「長老」なんですか?)、池田さんのエントリーでそう呼ばれているのは自分が尊敬する大先輩の先生のことのようなので、ちょっと複雑な気持ちである。スルーしようかと思っていたが、やはり何か言っておこうかと思う。

ところが、この長老教授のように与えられた目的に向かって若者を育てるという発想だと、みんなの力を総動員してグーグルに対抗しようという話になる。プロジェクトが失敗するリスクは想定されず、全員が無限責任を負っている結果、だれも失敗の責任は問わない。通産省のやった「大型プロジェクト」の大部分は失敗だったが、その事後評価さえほとんどされていない。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d08f877eaae20c3a16ca3d736d01a99d

池田さんが指摘されているのは、大学の、官僚構造の、そして日本の構造的問題だと思う。せっかく重要な問題を指摘されているのに、「御用学者」などとという呼び方をすると、それが大学教授個人の問題に矮小化されてとらえられてしまう。

このシステムを支えているのが、理科系の御用学者だ。学界というのは猿山みたいなもので、ボスが役所の審議会の委員として官僚の決めた政策にメクラ判をつき、その見返りに数十億円の研究費を取り、それを弟子に分配して仕事を丸投げし、弟子は大学院生を総動員して与えられた目標を達成し、研究費の分け前にあずかる、というゼネコン構造になっている。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d08f877eaae20c3a16ca3d736d01a99d

まず、誤解を恐れずに言えば、「官僚の御用聞きをする」というのは、良くも悪くも東大の職務のひとつのようになっている。日本の官僚組織がうまく機能しているという前提の下に、官僚をサポートすることすなわち国家に貢献することと考えられているのだ。確かに、その前提に大きな疑問があると思う。そんな御用大学に勤めている学者を御用学者と呼んで何が悪い、というかもしれない。

でも、「御用学者」などと言ってしまえば、池田さんのせっかくの問題提起が、「お上が悪い」「権威が悪い」というところで思考停止してしまうような人々の餌として消費されて、結局根本的な問題が議論されずに終わってしまう。バッシングが繰り返されるだけで何も変わらないという典型的パターンだ。それは池田さんの本意ではなかろう。

そもそも、彼は「御用学者」という言葉でイメージされるような、お金がほしいとか、官僚にちやほやされたいとか、権威がほしいとか、そういった志の低い人物ではない。それに、情報大航海プロジェクトに協力したって、研究費が増えるわけでもなく、逆に研究の時間は奪われる一方である。あくまでも国家への貢献を志しているのだ。

だからこそ問題の根は深いのだといいたい。

日本の外に出てみれば、本当に世界で知られている優秀な人は誰かわかるが、彼はそういう人物だ。 GoogleMapReduceが新しいなんていう奴は25の年前の彼の論文を見ろよ、とデータベース界のグルである M. Stonebraker 御大が言っているくらい重要な業績を残している。ドメスティックな「猿山のボス」とは違って、官僚に擦り寄らなくたってすでに名声は手にしているのだ。

ただ、申し上げにくいけれど、ここ数年に限っていえば、残念ながら海外から見たアクティビティは落ちているようにみえる。それと同時に日本語圏では「えらいひと」としてお名前を拝見することが多くなった。外に向けて輝いていた光は黒い雲に隠されてしまったのだ。*1

当然のことだが、偉大なデータベースの専門家であっても、経営の専門家でも行政の専門家でもないのだ。それを、全人格的に「えらいひと」に祭り上げ、「東大教授」として仕立て上げる。東大の教授が「東大教授」なのは社会がそれを望んでいるからではないのか。日本の組織は、ときに「リーダー」でなく「天皇」をおきたがる。結局、「えらい先生」を立てておけば組織内調整が円滑になるということなのだろう。でもそういうことに消費されるには彼はもったいなさすぎる。

彼のように優秀な専門家に、取りまとめ役のような仕事をさせるのは日本にとって大変な損失であると言いたい。正直、本当に残念でならない。

若い大学の研究者に対して、「官僚との付き合いを減らせ」と提言したのはこういった思いからである。もちろん、それも職務の一環であり、避けるのは難しいことは承知している。それに、本来ならば、官僚を媒介にした国家への貢献は意義のあることだとも思う。ただし、それが想定されているようにうまく機能すればの話だ。それが壊れていれば、どんなに官僚に貢献してもそれは国に貢献していることにならないし、しまいには「御用学者」と呼ばれてしまうのである。悲しいことである。

先に言ったように、これを「御用学者」とか「税金泥棒」とかいって大学教授個人や官僚個人を責めても事態は変わらないであろう。もちろん、大学も今後のあり方を真剣に考えなければならないが、根本的には日本全体が大きな官僚組織になっていることが問題だろう。つまりこれは政治の問題であり、最終的には有権者である国民の問題なのだ。優秀な人材を構造的な問題に落としいれているのは自分たちなのだと自覚すべきと思う。例えば、経産省のプロジェクトの存在そのものがもう時代遅れでだめだというのならば、国会でその予算を可決させないでほしい。軍人はどう戦闘するかのプロであっても、どう戦争を「しない」かの政治のプロではない。官僚も学者も同じである。

優秀な専門性を持ち、公共心に溢れる人々が次々と浪費されていく。それを本人の自己責任として放置してよいものであろうか。日本の組織はもっと専門家をプロフェッショナルとしてうまく使ってもらいたい。

そう思うのは自分が専門バカの聖地シリコンバレーに住むバカだからだろうか。


関連:

*1:人はこの状況を「年相応」のことと言うかもしれない。現役研究者としての一線から引き、若い世代を育てろと。でも実際お会いしてみれば、その感性が衰えていないことはよくわかる。仮に米国の大学で教鞭をとっていれば、まだまだこれからも現役バリバリに活躍できると思う。そして、そのように活躍することの方がよっぽど若い人を育てられるのではないかと思う。

情報系学会がなぜドメスティックになりがちか

先のエントリーには自分の予想を超える反応をいただいた。頭の中では「情報系」の若手を特に想定して書いていたのだが、文章ではそこがちょっとわかりにくかったことを反省している。日本語圏引きこもり問題は、学問の分野によってずいぶん状況が異なると思う。

反省を込めて、情報系の分野が、自然科学系に比べてなぜドメスティックになりがちか(日本語圏内に引きこもりがちか)、考えをまとめてみたい。


情報系がドメスティックになりがちな理由を端的に言えば、研究の「価値」がコンテクスト依存だからだと思う*1。数学との大きな違いは、実世界において意味のある計算をしなければ、価値のある研究とみなされにくいことである。しかし、どんなものに価値があるかは、文化や国の背景によっても異なる。*2

そういった背景を抜きに、「こんなアルゴリズムを作りました。走らせたら早いです。」というだけでは、論文としてあまり評価されない。

そんなわけで、情報系では実験結果や証明を提示する以前に、問題意識を共有するところから始めなければならない。IntroductionとProblem statementが超重要。しかし、文化的背景も異なり、しかも英語でのプレゼンテーションがあまり得意でないとなると、これが結構大変なのだ。

コンテクストを共有した仲間内であれば、話が早い。日本語論文なら、「近年、○○がさけばれている」と枕詞のようなイントロを書けば、みなまで言わずともわかってくれる。しかし残念ながら、それをそのまま英語に訳すとよくわからない論文になってしまう。そんなわけで、日本語圏に安住してしまいがちなのだと思う。「とりあえず日本語で書いて、さらに余力があれば英語の論文に発展させよう→余力がなくて力尽きる」みたいなことが繰り返されていないだろうか。

また、情報系の学会がこれほど乱立しているのも、同じ原因から来ていると思う。その人の背景が数学だったり電気だったり制御だったり機械だったり、お互いに価値観を共有できず派閥を作っているという面も否めないだろう。そしてその割には中の人は結構オーバラップしていて、一人当たりの仕事が増えるわけである。


日本にいたころ、ユーザーインターフェース系のある研究会に毎年参加していた。この研究会は、参加者には大変好評で、研究コミュニティのひとつの核となっていた。コミュニティ内では「国際学会のCHIやUISTよりずっと面白いし、レベルも高い」とも評されていた。研究会自体は実際に刺激的で、参加者も面白い人ばかりなのだが、年を経るにつれだんだん違和感を持つようになった。「そんなに面白いのなら、何で国際学会で発表しないのだろう…」

ユーザインターフェース系はコンテクストを超えた価値観の共有が最も難しい分野だとは思う。そのために若い研究者のアイデアが日の目を見ないのであれば残念である。だから、互いにコンテクストを共有する仲間内で萌芽的な研究を守り育てていくためにも、ローカルな「研究会」を日本語で開くのには意味があると考えている。

でも問題はそれで満足してしまっていることだ。

ユーザインターフェース系は端的な例だが、他にもデータベース系など、国内のコミュニティが活発な割に外に見えない情報系の分野はいろいろある。もし自分が「おもしろい。意味がある」と思うのであれば、それをもっと日本の外にもアピールすべきだと思う。難しいのは承知だが、がんばってほしい(自分もがんばります)。アピールさえちゃんとできれば、日本という特殊なコンテクストでの問題意識は弱みから強みに変わるんじゃないか。そう期待している*3

*1:また、ご指摘のように日本の「論文数至上主義」も影響を与えていると思う。まだ自分が日本にいたころ、情報処理学会の研究会論文誌の設立の話があった。その当時、「情報系は論文の数が出にくいので教員採用に不利に働いている。だから研究会でもっと多くの論文を拾い上げることに意義があるのだ」といった趣旨をある先生が言っていたように記憶している。

*2:なお、コンテクストは時代によっても異なるので、理論的には30年前に解かれたような研究が今またリバイバルしたりする。例えば「一般解はNP完全と70年代に証明されたが、今実社会で問題になっているこの特殊例については多項式オーダのアルゴリズムが存在する、あるいは有効なヒューリスティックを見つけた」、といった具合。数年前まではその「特殊例」が実社会的に意味を成さなかったのでナンセンスだった話が、新しい研究として成り立つわけである。

*3:逆に、自分の問題意識を捨て去って、ただ国際学会の論文を通すのにチューニングするのは本末転倒であり、おすすめできない。実際、査読者に文句はつけられにくいが、面白みのない論文を書くテクニックは存在すると思う。自分もそういう罠に陥らないよう、気をつけたいと思っている。

知の開国:大学の若手研究者ができる4つのこと

日本のIT業界は鎖国状態に近い。国内だけで回るシステムが産官共同で構築され、閉じた世界の中で生産性は一向に上がらず、日本発のソフトウェアやサービスが世界に広まるという事例が極端に少ない。

残念ながら同じことが、大学を中心にした学問の世界でも起きているように思う。国内だけで回るシステムが産官学で構築され、優秀な頭脳が低い生産性の中で無駄遣いされている。この事態を変えられるのは、危機感を持った若い研究者たちだと思う。もちろんこれは、大変難しい問題だ。日本全体の構造的な問題なので、一人の力ではどうにもならないと感じるかもしれない。それを力で変えようとすれば、政治的権力を得る必要があり、それを得たころにはもうあなたは今のあなたではなくなっている。危機感はそのうち無力感となり、そして何も感じなくなってしまうかもしれない。

それでも若手研究者に今から具体的にできることは、ある。

(1)英語のレジュメを書いてみる(書かせてみる)。

米国では博士課程の学生から教官までみなレジュメ(resume, CV)をウェブで公開している。公開するかはともかく、まず教官も学生もこれに見習って英文のレジュメを書いてみてほしい。それがあなたの「英語圏から見た姿」だ。学生に作らせようとすれば、指導教官もまた、自分のレジュメが恥ずかしくないようにしたいという意識も働くだろう。ダイエットで食べたものや体重を記録するとよいというが、それと同じ理屈だ。自分の現状を認識することが第一歩である。

研究室や個人の英語のウェブページもまだまだ充実していないと思う。研究に関する(英語の)キーワードを入れて、日本の研究室のページが引っかかることは非常に少ない。

(2)日本語論文を書かない(書かせない)。

さて、英文のレジュメをみると、自分のした仕事のかなりの割合が日本語でなされた国内向けのものであることに気づくかもしれない(他の分野は知らないが、特に情報系)。以前にも書いたが、次のステップとして日本語論文をやめてみることをお勧めする。ローカルな研究会などで情報交換を日本語で行うのはよいとして、正直、論文まで日本語にする意味がわからない。大変もったいないことをしていると思う。

研究者の方は知っていると思うが、情報系の分野で論文のサーベイをする場合は次のようなサイトをよく利用する:

これを使えば、論文の参照関係を手繰って関連する情報を効率的に収集することができる。学術論文がウェブになっているのだ*1英語圏にはこうしたウェブ、あるいは梅田さんと羽生さんの言うところの「高速道路」が充実している。しかし、ここから日本語の論文にたどり着くことはない。こうしたウェブが充実すればするほど、そこで引っかからない論文の存在感は小さくなる。また、研究者の業績を調べようと思ったら、みなDBLPを見る。どんな論文を発表して、どんな共著者がいて、という情報が簡単にわかる。これももうひとつのウェブである。もちろんここに日本語の論文はリストされていない。

こういった英語圏の充実振りを見ると、これに習って日本語版も、という考えになるかもしれないが、ここでやるべきことは日本語版を作って引きこもることではないと思う。論文を英語で書くのに比べて、日本語で書くことのデメリットは相対的に大きくなる一方である。今すぐにでもやめて、有限の時間を大切に使ってほしい。

なお、ほんとうにスゴイ論文は日本語で書いても外国で読まれるというけれど、ほとんどの論文は「ほんとうにスゴ」くはない*2。そこまでスゴくなくても十分価値があるのだから、ぜひ世界に公開してほしいと思う。

(3)無駄な学会を退会する。

情報系の学会だけでいったいいくつあるのか考えてほしい。IEEEACM以外に学会はいらない、とまでは言わないが、それにしても国内学会が多すぎると思う。もちろん、学会を新しく作るのが一概に悪いとは言えない。新しい学問を興すには新しい学会が必要だという考えもあろう。新しい学会を設立することが業績にもなるかもしれない。だが、つくった学会が淘汰されずに残っていくことが問題だ。学会の数が増え、大学の研究者はどんどん忙しくなっていく。日本語論文をやめたくてもいろいろ頼まれてしまう。そしてしがらみの重力で、日本がブラックホールのように収縮していくのだ。

学会を淘汰するには、会員がやめればよい。特に若い先生たちが退会すれば、その学会は続かなくなるだろう。しがらみもあって、踏み切るには勇気がいるかもしれない。でも、辞めるのはあなたが怠惰だからでも不義理だからでもない。生産性を高め、より大きな貢献をするためだ。

なお、梅田望夫流でいえば、「しないことリスト」は明確でなければならない。個人個人が「日本の学会はひとつに絞る」「日本の学会はすべてやめる」など具体的な基準を決めるとよいかもしれない。

(4)官僚との付き合いを減らす。

大学の先生になる人は、私利私欲よりも公のことを考え、ボランティア精神を持つ人が多い。それ自体はすばらしいことだが、それが構造的な問題と組み合わさった場合には、必ずしもいい結果をもたらさない。大学教授の社会貢献として、識者として政府の委員会に出席し、国策に貢献することが求められることがある。若手の研究者も、えらくなっていくに従ってそのような委員を依頼されるようになるだろう。引き受ける前に、これが本当に国のためになるのか、大局的な観点からしっかり考えた上で決断してほしい。考えなければならない二つの側面がある:

  1. 官僚の求めるままに何かしてあげることが必ずしも国のためにならない。
  2. 有限な時間をほかの事に使ったほうがもっと国のためになる。

前者は、これまでも国家プロジェクトの弊害などを取り上げてきたし、官主導の弊害は多くの人が指摘している。ここでは後者を強調したい。本当に他の誰でもなくあなたがやる必要があるのか?

考えてほしい。そもそも、政府には独立行政法人という形でいろんな研究所があるではないか。技術的検討なら彼らでもできるはずだ。あなたがわざわざ識者として意見するまでもない。大学教授ができることは、せいぜい彼らの考えへの権威付けにしかならない。それに、もし自分以外の誰も満足にできないと思うのなら、教育機関として大学は何をやってきたのだ、ということになる。むしろ、大学の先生としてあなたがすべきことは、世界的視野を持った研究者を育て、そういった研究機関に輩出することではないか。

情報が希少だった時代であれば、大学教授は総合的なアドバイザーとしての役割を持っていたかもしれない。だから、上の世代の大学教授にとっては、識者として官僚にアドバイスすることには意味があったであろう。だが、情報がコモディティ化した時代においては、大学教授の役割もおのずと変わってくるはずだ。その上で、大学でなければできないことは何か、よく考えてほしいと思う。

もちろん、国の政策に意見をするなと言っているわけではない。専門的な立場で指摘したいことがあれば、パブリックな形ですればよい。意見がいいたければブログに忌憚なく書いてみてはどうか。

*1:というか学術論文こそがウェブの原型といってよいわけで、このように発展するのは必然的といえる

*2:リンク先のジレンマは、本来「情報公開のジレンマ」であって、その戦略は言語圏に束縛されるべきものでもないと思う。情報隠蔽したければそもそも論文に書くこともない。

圏外からの眺め

衛星からの北朝鮮の夜景を見たことがあるだろうか。周りの国が光を放つ中、闇の中に人々が暮らしているかと思い、どきりとさせられる画像である。

それと同じようなものがある。英語圏から見た日本だ。周りの国が光を発している中で、日本からの光はまったく目立たない。全くの闇ではないが、その中にあれだけ多くの人が暮らしていることを考えると、この光のなさにはある種の恐怖を覚える。日本の中にいると、なかなかこの感覚はわからないかもしれない。国内ではどんなものでもどんな情報でも溢れているように見える。日本語圏内では逆に光が強すぎて、外のことが全く見えないんじゃないかと思う。

もちろん、日本では英語ができなくても立派に生きていけるし、多くの人は英語で発信することに意味を見出せないかもしれない。英語なんてものは「語学」という教養の一アイテムかもしれない。でも英語圏における、日本のこの存在感のなさは異常に感じる。日本の持つ(と自分が信じてる)国力にまったく見合っていない。米国在住の人間がこんなことを書くと、「またアメリカ万歳か」と思われるかもしれない。そしてアメリカ合衆国のもつ問題を取り上げ、そうはなりたくないと言うかもしれない。確かに、アメリカはそのうち没落するかもしれない。けれど、いまや世界に広がった英語圏はますます大きく発展していくだろう。アメリカが没落してチャンスを得るのは英語圏の中の人であって、日本語圏の中の人ではないと思う。

日本語圏に閉じこもることは、今までは国内市場を外から守るのに利してきたかもしれない。しかし、英語圏にできつつある圧倒的なスケールの市場の前で、今の引きこもり状態は大きな足かせとなっていると思う。これまでのように、製品をやり取り(輸出入)するだけなら、黙っていい物を作れば何とかなる部分もあったかもしれない。しかし今起こっているのは、労働やアイデアなどの流通の拡大である。日本語圏に閉じこもりながら、外にも何かを売っていくという方法は難しくなる。


最近、自分の研究グループでは研究員を公募した。アメリカで働ける人を前提にしているが、それでも世界中からレジュメが送られてくる。ヨーロッパ(東欧も含む)、インド、中国、韓国、シンガポール、オーストラリアなど。また、米国内からの応募もほとんどは外国籍の人だ。だが日本からは(日本人からも)一件も応募はない。まあ、分野も限られているし、わざわざ海外に出て日系の会社に勤めたいとは思わないかもしれない。だがそれ以前に、そんな応募が英語圏で出回っているということがあまり知られていないんじゃないかと思う。日本に普通に暮らしていると、英語圏労働市場は意識の「圏外」なのだろう。

英語圏労働市場の拡大は、人間の移動を伴わない形でも実際に進んでいる。研究所のあるプロジェクトでは、研究成果の製品化のために東欧のある国に開発チームを結成した。それは賃金の安い国に単純労働を下請けに出すといったレベルではなく、世界中の頭脳をいかにダイナミックに結集させるかといった問題なのである。であれば、本来なら日本にいながら英語圏の中に入っていくことも可能なはずである。だがそれがあまり起こっていないのは、日本語圏内でのつながりがあまりに濃厚すぎて、その「圏外」に意識を向けようとすることが難しいからではないか。

だから、普段から英語圏に光を発していることが大切である。個人個人がもっと光を発してほしい。

先の研究員の募集の場合でも、それがいえる。仮に日本からレジュメが送られてきたとしても、実際のところ、日本の研究者はだいぶ不利だと思う。その人の持つ能力に比して普段の英語圏へのアピールがたりないからである。送られたレジュメのうち検討の対象となるような人は皆、トップレベルの国際学会(我々の分野ではSIGMOD, VLDB, ICDE, KDD, WWWとか)で論文発表を行っている。ところが、こういった国際学会での日本のプレゼンスは非常に低い。アジアの中でも中国・インドにはもちろん、分野によっては韓国やシンガポールにも負けている。さらに、アメリカに住んでいる中国人、インド人をカウントすると、日本人の割合は圧倒的に少なくなる。それでも、日本人が他の国の人より劣るとか、日本の研究機関が劣っているとは思わない。優秀な人材はいっぱいいると思う。ただ、国内で業績を上げている立派な研究者も、そういった国際学会の場で発表していなければ英語圏からは全く見えてこない。


先日、日本のある若手の研究者とこちらで会う機会があった。スタンフォードで開かれた国際学会に参加しにきたのだが、「敗北感を認識するためにやってきた」という。彼は最近までスタンフォードに留学していたが、帰国して日本の大学の准教授となった。日本にいると、今まで持っていた危機感が日常の中で薄れてしまいそうになる、と言っていた。彼にも日本の「北朝鮮の夜景」状態が見えているのだ。そしてその感覚を失ってしまう怖さも。日本の大学から、どうやって世界に伍して戦うか、どうやって日本から光を発するか、そのために奮闘している。

彼や、他の若手の大学教官たちが訴える危機感を総合すると、上の世代は「逃げ切り」状態で後先のことを考えず、学生たちはマスコミの流す情報に晒されるのみで全く危機感を持っていない、ということのようだ。まあ確かに、大学教授は構造的に日本の巨大な官僚システムに組み込まれているから、上の世代が身動きが取れず、結果的に体制維持的になるのはわかる。また、ネットが発達したとはいえ、そのほとんどがマスコミの流す情報をネタとして消費するだけというのが現状とすれば、学生たちの「知らされていない」状態もわからないでもない。だからこそ、若手の活躍に期待したい。上の人に依存せず、まず隗より始めてほしい。外に対して光り輝いてほしい。そして、学生たちに影響を与えてほしい。若手がんばれ。超がんばれ。

大企業研究者のジレンマ

大企業研究者とは第一義的には大企業に勤める研究者だが、その性(さが)ゆえに大企業についての研究もしてしまう悩める研究者のことである。それはともかく、前回のエントリーで引用させていただいた中村孝一郎 (id:koichiro516)さんから反応をいただいた。

一方ベンチャーでは、scienceもやればengineeringもやっていた。これは、チームとして生き残るという目的に沿うことならば、scienceとengineeringの垣根はないと言ってもいい。また、その両方に適応できる能力をコアの人材は備えていた。

本来、大企業だってそうであった方がいいのだろうけれど、生き残りなんていう切迫感がないので、研究者が勝手に自分の手の届く範囲に縄張りを決めてしまっているのではないかと感じる。それを許すのが大企業のゆるさなんだよ、と言ってしまえばそれまでだが。
http://d.hatena.ne.jp/koichiro516/20080212/p1

大企業においては、意思決定などはゆるくても、部門間の壁はガチガチに硬かったりして、実用化までの視野を持った研究者が育ちにくい。そういう点は確かにあると思う。その壁ゆえに多様な研究が持続できるゆるさが生まれ、そして壁ゆえにそれが死蔵されてしまうのだろう。これが大企業研究者のジレンマである。

これは、壁を取り払い、情報を可視化(見える化)すれば大企業病がすべて解決、というわけには行かないという難しさを示している。現在の組織構造そのままに、情報共有だけ極限まで進めていけばどうなるか。仮に大企業内のさまざまな情報を可視化できるシステム「水晶玉」が実現されたとしよう。ビジネスインテリジェンスとかエンタープライズ2.0(笑)とか、そういったものの究極である。国内大手ITベンダを想定して、ちょっと極端な作り話をしてみる。


まずは、管理者(研究投資の意思決定者)側に立ってみよう。水晶玉に映った研究者の様子を見ていると、なにか自分には理解のできない趣味的なことをやっている姿が見える。水晶玉はその研究者の活動にかかるコストをリアルタイムで表示している。見ている間にもカウントが上がっていく。それは数年後には役に立つかもしれないが、現在の事業には貢献しそうにない。関連事業部長を水晶玉に呼び出す。彼も今の案件で手一杯で、そんなことまで手が回らないといっている。さてどうするか。それを切ればすぐに業績につながることはわかっている。水晶玉がその数値をはじき出す。一方、将来の不確定性を加味して投資の現在価値を算定するのは、特にIT系では非常に難しく、個人で判断したり、少人数の幹部で合議したりできるものでもない*1。そして、水晶玉はそこまでは教えてくれない(それを教えてくれるならこの管理者は不要なのでクビだ…)。また、仮にそれが正しく算定できたとしても、会社としての投資の現在価値と、意思決定担当者としての投資の現在価値は一致しない。なぜならその技術が事業化されるころには自分は別の部署にいるという可能性が加算されるからである*2

だから、現状の組織構造では、管理者側がきっちり仕事しすぎると、研究所は小さくまとまりがちで、革新的な技術は生まれなくなってしまう。


次に、研究者側に立ってみる。現場の人はどうしているのだろうと水晶玉をのぞいてみる。ある開発プロジェクトがいま炎上しているのが見える。開発部隊も水晶玉を持っているが、さすがに顧客の心の中の「真の仕様」までは映せなかったようだ。いろいろ手違いが生じている。実際に顧客のデータでテストしてみると全く性能があがらず四苦八苦しているようだ。コードをチェックしてみる。これなら自分もプログラマーの端くれとして助太刀できそうだ。研究者は炎上するプロジェクトの中へと飛び込んでいった…。

しかし研究者がここですべきことは、現在おきている具体的な事例から一歩引いて、そもそも何でこんな困難がおきるのだろうか?と考えることである。情報系の企業研究者は、現場で起こっている問題を抽象化し定式化する能力のために雇われているのだ。新しいアルゴリズムによる性能改善であるとか、システムの自動チューニングであるとか、あるいは顧客のフィードバックを得られる機会を増やすために工期を劇的に短縮させる、そのためのプログラミング技術であるとか、そういったものを提供するのである。それは今のひとつの案件ではなく、将来の沢山の案件に貢献する。

でも今ここで新しいアルゴリズムについて思いをはせても、今炎上しているプロジェクトは救われない。つまり、同僚が四苦八苦している脇で、「これってどういうことだろう」と暢気なことを考えていなければならない。一方、今手助けをすれば、すくなくともその同僚からは感謝されるのだ。

まあこれは、極端な御伽噺のようなものだが、似たような罠が遍在しているとおもう。自分も、「研究者の縄張り」の中で独善的になりそうになったり、逆に現場の人のニーズ(それは必ずしも顧客のニーズではない)に対するその場限りの貢献に引きずられそうになったりしながら模索を続けている。


壁のない(ベンチャーのような)組織構造のゆるさ、そして多様性を保持できる(大組織の)ゆるさ。これを両立させることが大事なのだが、それは簡単ではない。簡単ではないけど、「これってどういうことだろう」と暢気なことを考えている自分がいる…。

*1:市場のように多種多様な人が競って値踏みすればまだいいと思うが。

*2:このギャップを避けるためには、この管理者の判断の会社にとっての価値を算定して、管理者の給料を査定する必要があるが、水晶玉はそこまでは…(以下略)

大企業をゆく

更新をサボっている間に今日またひとつ歳をとってしまった。ちょっとここで、大企業に勤める研究者として自分の身を振り返ってみたい。

ウェブ時代をゆく』関連で大組織と小組織の対比が話題になったが、そもそも自分はなぜ大企業に勤めるのだろうか。『ウェブ時代をゆく』の「大組織適応性」チェックリストは必ずしも当てはまらない。むしろ逆に思う点も多い。例えば、

「配属」「転勤」「配置転換」のような「自分の生活や時間の使い方を他者によって規定されること」を、「未知との遭遇」として心から楽しめる。(p93)

という点。会社の命令で赴任し、会社の命令で突然帰任させられる出向者の人々を見てきているので、日本的企業戦士の適応性としては納得するのだが…。自分にはできないだろう。*1

そんな自分でも今ここにいるのは、大企業ならではの研究職というものに意義を感じているからだろう。

大企業のゆるさと研究職

まず言えるのは、(少なくとも現状では)大企業でなければ研究者を雇えないことだ。組織を大きくして、一人ひとりのちょっとの手間を集めると、まとまった仕事になるし、一人ひとりのちょっとの余力をあつめれば、もう一人専門家を雇うことができる。そんな感じに大企業にはいろんな人が生息しているわけだ。研究者というのもそんな中の一人である。

組織が大きくなることで生まれる、大企業の「ゆるさ」がけっこう大事なんだと思う。

切迫感の張り詰め度合いが「ゆるい」ので、万事ゆるくなる。判断基準がゆるい、判断のスピードがゆるい、実行のスピードがゆるいといった風に。とは言え、そのゆるい大組織だからこそ、役に立つかどうかもわからない結晶の研究を、10年以上続けていた人たちがいて、その結晶をいろいろ調べているうちに俺はあの現象を発見・解明できたのだし、それが次の何か面白いことにつながりそうなのだ。ぬるさ・ゆるさは考えよう、使いようによってはいいものだ。
http://d.hatena.ne.jp/koichiro516/20080131/p1

多数の人間、多数の事業を集めてリスクを分散しているという点に大組織のひとつの本質がある。ここで、多様性を保つだけの「ゆるさ」がなければリスクが分散されないことに注意が必要だろう。

いちどは外の血を入れて変革に適応した彼らがなぜFOMANGNで先祖返りしたのか、というテーマについては考えさせられる。恐らく際物として扱われている間は放っておかれても、それが輝かしき未来像となってしまった途端、本流のテクノクラートに押しつぶされてしまって輝きは色褪せてしまうのだろう。いささか逆説的だが、大組織に於いては会社から期待されないことが重要なこともあるのだ。
文化の変遷への適応と流動性 - 雑種路線でいこう

「期待されないこと」というのがこの「ゆるさ」によって担保される。そうでなければ、「期待されない=切り捨てる」とならざるを得ない。その意味で、「選択と集中」や「コンプライアンス」が自己目的化して行き過ぎると企業を殺すことになると思う。とくに研究所の管理職様におかれましては、ほどほどにお仕事くださるよう…。

大企業病と研究職

しかし雇えるゆとりがあるからといって、そもそも企業が研究者を雇う必要があるのか。という疑問は残る。

研究は大学に任せておけばいい、という考えもあるだろう。産学連携すればいいじゃん、と。ただ、両方に所属した個人的な体験から言えば、大学にいるのと企業の中の人になるのとでは、(たとえ現場に立っていなくても)やはり見えるものがぜんぜん違う。当然、研究での問題意識も違ってくる。また、産学連携するにしても、大学は企業の下請けではないし、上流工程・下流工程のようなウォーターフォール的関係でもない。研究者同士の個人レベルでの対等な関係があって初めて連携ができるというものだ。

そして企業の中でも研究者を雇うのは、大企業、ある程度成長して成熟した企業である。つまり、大企業病にかかった会社だ。

大学の研究職と違って、企業の研究職は患者と向き合う医者みたいなものだとも最近思う。

企業も若いときには「今」が大事で、がむしゃらに今の事業を走り続ける。企業が成熟してくるにつれ、その老い先が気になってくるし、健康管理に気を使うようになる。学術論文や国際学会での存在感を見ると、その企業の成熟度がわかる。マイクロソフトも90年代になって研究所を設立し、今ではコンピュータ・サイエンスをリードする存在だ。Yahoo!も研究所を設立したのはここ数年のことで、IBMから何人も研究者が移籍した(まあYahoo!はそういう成人体質の会社だから今苦境にあるんだろうけれど)。

もちろん、研究者を雇ってもその成果が生かされるかは別問題で、まさに大企業病ゆえに成果を死蔵してしまうこともある。*2

あと、若い人だけでなく、大企業の研究所で決して高くない給料でいつ世の中で使われるかもわからない技術の研究(研究テーマの話ではなく、官僚的な組織でせっかくの良い技術が外に出ない構造のことを言っている)をしているような人。たくさんいるのは知っている。寄らば大樹のつもりかもしれないけど、大樹だって倒れる。一度しかない人生なんだから、社会に影響を与えるようなことをしたらどうだろう。いまだに大企業の研究所が優秀な人材を死蔵させているのがこの業界の問題だと思う。この「情報大航海プロジェクト」だけでなく、そういった人たちに外に出てきてもらうような(別に転職や起業しなくてもいい)ことを促進するようなことを大企業や国には期待したい。
玲瓏: ウェブ国産力 日の丸ITが世界を制す

「せっかくの良い技術が外に出ない構造」というのは確かにそのとおりで、困ったものである。ただ、(本文にも注記されているが、)個人が組織を辞めて外に出てしまえばいいというものではない*3。多様性を取り込み、それを生かすことのできる組織が望まれているのだ。

大組織 vs. 小組織

多様性を取り込み、それを生かすことのできる組織。ここでまた大組織対小組織の話に立ち返る。ウェブ技術が進展していけば、もしかすると小さな組織こそがその理想に近くなるのだろうか?

大企業のように大きな組織がよいのか、小さな組織を緩やかに連携させるのがよいのか?

パソコンの隆盛とともに育った世代でシリコンバレーなんかにいるような自分にとって、両者の対立で後者が前者を打ち負かすという構図は正直魅力的だ。しかし、実際にはそんなに単純な話ではないだろう。今起こっていることを描くには大組織と小組織を対比的に描いたほうが解りやすく、特に日本において『ウェブ時代をゆく』の表現は効果的だったと思う。しかしこれは、小さな組織だけがウェブ技術で力を得て、大きな組織とは別に発展していくとか、あるいは大きな組織を打ち負かすということまでは意味しない。

このアナロジーとして、データセンターのような大規模集中システム対P2Pのような分散システムという構図に思いが至る。これまでのシステムの進化の過程をふりかえると、構図はそんなに単純ではないことがわかる。例えばグーグルやアマゾンの大規模システムは、これまでの分散処理技術の発展の上に成り立っている。インターネット的にはこれは集中化であるが、メインフレームのようなものから見ればこれは分散システムである。今後も仮想化技術が進んでいくことで、分散か集中かという話はあまり問題にならなくなっていくだろう。

大組織対小組織の話も同じように、長期的にはむしろ両者の境界がどんどん曖昧になっていくのではないか。例えば、Googleという大組織は、小組織のよさを保ちながらスケールすることに挑戦している。今はGoogleという特殊な会社の試みではあるが、そのうち大組織対小組織の話がナンセンスになる時も来るかもしれない。

ウェブ技術と大企業が共通してもっている点が二つある:

  1. 多様性をゆるす「ゆるさ」がある。
  2. 小さいものを多数集めて大きなものにする。

大企業の問題はこの二点がうまくかみ合っていないということではないか。つまり、群集の叡智に必要とされる「多様性の中から出てくるものを集約する仕組み」が十分機能していない。それどころか、その「ゆるさ」を奪うためにITを使いかねないところに不安を感じる。

このあたりの問題意識と、自分の研究の方向性がうまくあっていけばいいなあと思いつつ、今後もブログでいろいろ書いてみたいと思う。

*1:よく考えてみると、このリストは、大企業本来の特性と、終身雇用制など日本ならではの大企業の特性の両方に基づいているように感じる。日系企業とはいえ、雇用形態から労働市場まで基本的にアメリカンな環境だからやっていけているけれど、日本の典型的な大企業の本道をゆく適性は自分にないと思う。

*2:「こと”も”ある」というレベルではないか…

*3:「外に出てくる」=「もっと会社の外に見えるようなことをしろ」、という意味では大賛成。会社の中に篭って会社の中だけに意味のある技術を開発し、それが結局事業に生かされなかったというのでは悲しすぎる。

ケータイけものみち

昨日のエントリについて、海部さんからトラックバックいただきました。ありがとうございます。

グーグル主導のオープン化の動きが、どこまで「業界の本質的な地殻変動」であるのか、それとも「グーグルvs.ベライゾン」の政治的かけひきの一つなのか、ということを十分見極めて動いたほうがよい。今のタイミングで、グーグルの口車に乗ってオープン化を掲げてアメリカに大々的に参入したら、ベライゾンAT&Tから永遠にバツがつけられてしまうかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20071226/1198729719

それは全くおっしゃるとおりであり、重要なご指摘である。特に、大手のITベンダーは携帯端末だけでなくネットワーク機器でもキャリアとお付き合いがあるので、お客様であるキャリアに対して真っ向から挑戦することはできないだろう。もし「大々的に参入」しなければならないとしたら、それはまだ時期尚早だと思う。混乱の中でオルタナティブな活動としてやってしまえるくらいに自由化されるかどうか、見極めは必要だ。

いずれにせよ、海部さんのおっしゃるとおり、タイミングを見切り、決断をするのは大変難しいことであろう。でもいざ決断をしたときに、体が動かなかったら仕方がない。だから今のうちに体を鍛えて備えておかなければならない。

だから、今の段階でやるべきことは、ビジネス開発のけものみち以前に研究開発のけものみちをゆくことだと思う。「今から試行錯誤すべき」というのはそういうことである。ケータイ開発といっても、ハードウェアではなくWebサービスのほうに重点があるかもしれないし、ハードウェアも携帯端末である必要もなく、もしかするとロボットのようなものかもしれない。あるいは、すべてがモジュール化されていく中で、特化するべき重要なコンポーネントがあるかもしれない。どちらに進むべきかわからない。そういった意味で、今までの道を外れた「けものみち」なのだと思う。

個人的には、端末そのものよりも、それによって拡張されたウェブの方に興味がある。Googleがアプリケーションをすべて支配できるわけでもないので、いろいろな機会があると思う。

政治的な主導権がどう動いたとしても、ハードウェアの性能が上がり、ソフトウェアがモジュール化していくのは不可避な流れだろう。だから、開発したものがそのまま製品としてビジネスにならなくても、そのノウハウは生かされていくと思う。

将来の状況がどうなるにせよ、2008年は「ケータイ」の再定義を模索することが重要なんじゃないか。今年を振り返ってそう思ったわけです。