研究者になりたい皆さんへ

好きなことを意識的かつ戦略的にやるという梅田さんの記事をうけて、ではどうすればよいかという、研究者を目指す人向けの記事が目を引いた:

http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20070403/1175617089

では私からも、研究者になりたい皆さんへ。
今の環境でサバイバルするのが好きを貫く唯一の方法ではない、と主張したい。

さて、上記のブログ記事ではまず、藤森かよこ先生の記事
藤森かよこの日本アイン・ランド研究会-アキラのランド節
が引用されている。
女性研究者のセクハラの問題に関連して、「女性研究者の会」が研究を語り合う場から
セクハラ撤廃運動のような運動団体化してしまったことにうんざりするくだりがあって、

天才でもないし、世界で10の指に入る大学者でもないような凡庸な頭脳の持ち主が、好きなこと勉強して食ってゆきたいと思うのだから、愚劣な人品卑しい人間にうんざりするほど遭遇するなんて程度のことを経験するのは、当たり前です。正当なことです。それぐらいの不如意を引き受けてこそ、まっとうに忍耐力のある人間になれるってものです。

さらに

女性研究者のみなさん、どっちの道を採るか、ちゃんと真面目に選びましょう〜〜いったん選んだら、迷いは捨てましょう〜〜学問の世界を頭脳明晰さと業績の質で生き抜けない場合は、権謀術数と打算と色香で生き抜くか、どうでもいいの!食ってゆければいいの!好きにやるの!と生き抜くか、どちらかです。どちらも選べないような優柔不断で潔くない中途半端な甘ったれた奴が、ギャアギャア騒ぐんだよね。

と述べている。

藤森かよこ先生の原文の「愚劣な人品卑しい人間」も「中途半端な甘ったれた奴」も「どっちもどっち」だ、
という趣旨には賛同したい。
しかし、だからといって、このブログ記事のように

そして、「意識的で戦略的に生きる」とは、要するに権謀術数と打算と色香で生き抜くか、どうでもいいの!食ってゆければいいの!好きにやるの!と生き抜くかのどちらかの生き方を望むか、なのです。

と、「意識的で戦略的に生きる」方法がこれだけというのは(釣りとしてはよいけど)ちょっと結論を急ぎすぎだと思う。

あなたもその「ろくでもない奴」になるかもしれない

学問的業績でなく処世術に長け、嫉妬深くプライドだけで生きている「ろくでもない奴」ら。

ここで、男か女かということは本質的な問題ではなく、その職場が閉鎖的なタコツボ環境に
陥っていることが根本的な問題なのではないか。

労働に市場性がない、つまり、やっていることに「つぶしがきかない」。

つぶしがきかなければ、自分のポストを確保するのに必死にもなる。学問的業績といった
本来の能力ではなく、権謀術数に長けて嫉妬深く執念深い人が生き残っていくのも無理はない。

そんなところだからこそ、余計に女性が差別されるのではないか。

これは日本の大学という場では顕著なのだろうが、お役所でも大企業でも、程度の差こそあれ、
組織の中に吹き溜まりのようにできる環境かとおもう。

藤森先生のように、そういった環境を豪快に走り抜けて自分の業績を
つみあげられるのであれば、それもひとつの手であろう。それができるのであれば。


でも、その環境で生き残るため権謀術数をめぐらせているうちに、
あなたもその「ろくでもない奴」になっているかもしれない。


研究者になりたい皆さん、特に女性の皆さんへ。
自分が弱者だとか疎外されているだとか、男だとか女だとかにかかわらず、
誰でも環境によって「ろくでもない奴」になることがあります。それはご注意ください。
藤森先生がどっちもどっちと批判される「甘ったれた奴」も、
結局はそういった環境にとりこまれてしまった人たちだと思います。

そこから自由になるには自分の「好き」をどうやってつぶしの利くものにしていくか、
そここそに「意識的で戦略的」であることが大事だと思う。


研究者になりたい皆さん。
学問の世界を業績の質で生き抜けない、と結論付ける前に、
もう一度自分の「好き」とはなんなのか、正面から向き合っていただきたい。

そして考えていただきたい。

その環境の中(たとえば今いるあなたの大学)でしか、「好き」を貫けない、
本当にそうだろうか?
今こだわっている方法だけがあなたの好きを貫く方法ですか?

「好き」の再パッケージ化:つぶしのきく「好き」を求めて

シリコンバレーにいるといろいろな起業家の方とお話しする機会もあるのだが、
そこでわかるのは、ベンチャーも、ただ好きなことを続けていたらたまたまそれが
当たったというような暢気なものではないということだ(当たり前なのだけど)。

そんな中で感銘を受けたのが、起業がうまくいかなかったときにそれを「再パッケージ」
する、そのたくましさだ。

たとえば自分が新しいアイデアなり技術なりを持っていたとする。
自分自身は、これはいける、これはすごい、と確信するわけであるが、
それでも資金調達できなかったり、実際にトライアルしても伸び悩んだりする
わけである(というかそのほうが多いよね、普通は)。

で、そこですることは、単にあきらめてしまうでもなく、同じことに固執するでもない。
自分のアイデアを再定義することだ。今までこれはウェブアプリのインターフェース技術
だと信じ込んでいたが、ちょっとまてよ、こう考えてみたらどうだろうか?みたいな感じである。
最初の失敗から学んで、何が問題で何が問題でないのか、自分の持つ技術の本当の強みは
何なのか、理解を深めた上で、いま自分の持つものを最大限に生かして問題を定義しなおす。

その結果、非常に短期間にまったく違った(ように見える)事業プランをたたき出し、新しい
包み紙と新しいリボンをつけて売りに出すわけである。

こういうことをシステマティックにやってこそ、不確実性の中でチャンスを最大化できるのだ。

梅田さんの言う「意識的で戦略的」なプロセスであり、まさに「サバイバル」なのだと思う。


これを「好きを貫く」というコンテクストで考えると、「再パッケージ」とは
自分の「好き」と向き合い、それを捕らえなおし、つぶしの利くものに再定義する
という過程だと思う。

「好きを貫く」には、ただやりたいことを漫然と(あるいはがむしゃらに)やる
ことでも、自分探しのために漫然と(あるいはがむしゃらに)やることを変える
(転職とか研究テーマ変更とか)ことでもない。

  • まず、なぜ自分はそれが好きなのか?その根底にある要素は何か?問い直してみる。
  • そして、一般化して考えてみる。自分の「好き」の根底にある要素は、他の分野にも共通するようなものか?
  • または、特殊化して考えてみる。それを切に必要としている人(あるいは分野)はどこにあるだろうか?

そういうふうに考えていくと、より自分の「好き」を深く理解することができ、
新たな活路が見出されるのではないか?

「理系」の分野であれば、ある分野の技術が他の分野でおおきく活路を見出すことはよくある話だ。
(たとえば文字列検索技術が遺伝子情報処理技術に活用されたりとか)
でも、いわゆる「文系」と呼ばれる分野だって、再パッケージの仕方によっていろいろな活路があると思う。
たとえば、何とか総研のようなところでコンサルティングという道もあるかもしれない。
そこには大学とは違った「研究職」の醍醐味がある。

さいごに:エリートだったら何か?

「梅田さんはエリート中のエリート」だから、自分とは違うのだというところで思考停止
してしまっている言説をよく目にする。

まあ梅田さんを「エリート中のエリート」と言う人は、上には上があって、梅田さんだって
(というか誰でも)この人はすごいなあと規範(ロールモデル)に仰ぐ人がいるだろうことに
思いが至らないのかもしれない。

梅田さんだって、いま結果的に成功している(かどうかは彼の成功の定義にもよるが)のであって、
なにか約束された道を歩んできたわけではないでしょう。日本で生まれ育った人が組織から離れて
別の国で独立してやっていくに至るのに何の葛藤もなかったと思う?
でもそんな苦労談を披露して共感を得たいのではなく、プロフェッショナルとしてそれを一般化して
サバイバル論として議論したいわけでしょ?


自分も、経歴からすれば「お前はエリートだから」と言われてしまうかもしれない。
おまえはエリートだから好きな研究ができてよかったな、でもうちの大学は違う、とか言われる
かもしれない。そういうふうに取られると、ここで何を書いてもしょうがないのだけれど…。

いずれにせよ、「エリート」だって道に迷い、サバイバルのために必死なのだ。
どんなところでも、「好きを貫く」には将来の不確定性の中でもがいて生きていくしかない。

エリートだろうが何だろうが、理系だろうが文系だろうが、あなたのための「解」が、
そのまんまの形でどこかに転がっているわけではないのだ。
あなたと違うのは当たり前。自分で考えるしかない。他人の言うことは所詮そのための
材料に過ぎない。


まあありきたりの結論だけど、しょうがない。