日本語論文をやめてみる

学生のころ読んだ中川いさみの4コマ漫画「クマのプー太郎」にこんな作品があった。

クマのプー太郎が暇そうに寝ている。
「君は暇そうでいいなあ、僕なんかてんてこ舞いだよ」と、その脇でテンテコ、テンテコ踊っている男。
プー太郎が一言、「そのテンテコ舞うのをやめてみ」
「はっ、うそのように暇になった!師匠と呼ばせてもらうよっ!」

神発言である。
以来、何度この言葉を思い出したことか。

梅田さんとクマのプー太郎を同時に語るなんて思っても見なかったけど、「やめてみるメソッド」について。

まず、『ウェブ時代をゆく』に

それも自分にとってかなり重要な何かを「やめること」が大切だ。

というとおり、重要なものをやめてみるわけだが、重要なだけあって「やめない理由」はいくらでも思いつく。けれど、そこをあえて「やめてみ」と書いてみよう、ということで、極論をお許しいただきたい。できればそれを間に受けて、勘違いにも本当にやめてしまうことがあれば幸いである。

今回取り上げたいのは、日本語の技術論文である。日本語で論文を書くのをやめよう。

これは情報系の学会に限った話かもしれない(他は知らない)。しかし、なんでそんなに日本語の論文を書くのだろうか。学問の中には日本語で書く必然性があったり、その学問を学ぶものは本質的に日本語が読めることを前提にできたりするものもあるかもしれない(日本語学とか?)。でも情報系の論文を日本語で書く意味がわからない。情報系の学問にかかわっている人は世界中にいて、その大多数に何かを伝えようとすれば英語で書くしかない。それでも日本語で書く理由は、誰かに伝えるためでなくて、本数を書くことだけに意義があるとでもいうのだろうか。

英語だろうと日本語だろうと、書く人の勝手だというかもしれない(書かないよりましだろ、とか)。が、日本語の論文誌を維持するために、査読者や編集委員など結構な労力がかかる。情報処理学会、電子情報通信学会、日本ソフトウェア科学会、人工知能学会。*1 かなりのエネルギーを使って、日本でしか読まれない論文を生産している。

日本の研究コミュニティを活性化するために、ローカルな情報の流通も大事で、そのために日本語も大事だ、という意見もあると思うが、それなら研究会で十分であろう。日本語での研究会までやめろとは言わない。

日本の外に出て6年ほどたつが、外から見るとまったく日本が見えてこない。その反対にこの6年で英語の論文へのアクセシビリティは格段に向上した。論文の参照関係はそのままウェブとなり、そこから手繰っていける論文とそうでないものとでは読まれる可能性は大きな差がある。不勉強で申し訳ないけれど、日本語の論文を読むこともなくなってしまった。ましてや日本語を知らない人から見れば、そんな論文は存在しないに等しい。

国際学会で、なんでこんなに日本人の発表が少ないのだろうか。研究者として劣っているとは思わないのだけれど。

学会にもよるだろうが、そもそも日本からの投稿が少ないようだ。

国別投稿数ランキングを開会のセッションで発表することがよくある。今年、データベース系の学会であるSIGMODに参加したときにも、国別ランキングを見る機会があったが、中国・韓国・シンガポールはあっても日本がみつからなかった(日本から投稿0件ではないことは知っているけれど)。日本が「その他」に含まれてしまったか、自分の見落としかもしれないけれど、いずれにせよ日本の目立たなさは常に感じられる*2

日本の内弁慶度(国内で元気な割に国際学会であまり目立たない)の高い領域としてSIGMOD(データベース系)、SIGIR(情報検索系)、CHI(ユーザインターフェース系)といった国際学会があるが、これらの学会に関しては、採択される論文の傾向に偏りがあるという指摘を日本人から時々耳にする。確かに、上記のそれぞれの学会で、通りやすいネタ、通りやすい演出法はあるように思う。最近数が増えているアジアのほかの国々はそういうところを狙って物量作戦をしているだけじゃないか、自分はもっと志が高いのだ、という見解もあるかもしれない。が、だからといって引きこもっていてはどうにもならないだろう。*3

もし採択傾向に偏りがあって、日本の研究コミュニティが疎外されていると思うのであれば、プログラム委員とかで日本の研究コミュニティからもっと影響力をだしていかなければならないんじゃないか。「こういう点はもっと評価されるべき」ともっと声をだすとか。日本の大学の先生方におかれては、そういった国際の場でもっとご活躍していただきたい。忙しくてそれどころではない、というかもしれない。もちろんお忙しいのは存じ上げている。

そこで「日本語の論文をやめてみ」である。

そしてその時間を外に向けてほしい。

日本の学会にしてみれば、日本語論文をやめるのには勇気がいるだろうと思う。英語論文だけにしたら、とたんに存在意義がなくなってしまうという危惧もあるかもしれない。じゃあ論文誌もやめれば、と思うんだけれど。

「はじめる」だけでなく「やめる」というのが業績にカウントされるといいのだけれどね…。

*1:日本を出てから、情報処理学会以外は全部やめたので現状をよく知りませんが…。

*2:もちろん、無いことを「感じ」られるのは自分が日本人だからで、他の人にとっては意識にも上がらないわけだ。

*3:そもそもネタや演出以前に、日本人の英語論文の文章のまずさもある。他の学問はともかく、情報系は「問題設定」が命だ。測定データを見せるだけで説得できるということはほとんどない。何を問題と捉えていて、それをどう定式化するのかをはっきりと示さなければならない。それなりの文章力を必要とするのだ。日本からの論文には、イントロダクションを読んで、結局何が言いたいの?というのが多いように思う。