「ウェブ時代をゆく」(2)ロールモデリング―「よいこと」を抽出する技術

ウェブ時代をゆく」が日本で発売されてからサンノゼの書店になかなか入荷されなかったので、それまでの間本書に関するネット上の記事や感想を読んでいた。結局、著者本人のこれまでのブログも含め、事前情報を仕入れた上で本書を読んだわけであるが、それでも実際に読んでみて新たな発見があった。ひとつはスモールビジネスに関することだが、もうひとつはロールモデル思考法である。

読前感としては、ロールモデル思考法の「何でもロールモデルにしてよい」という意味は「ただ、子どもが王貞治になりたいというのと一緒で、どんなにえらいものでも消費してしまえというのがこの考え方です。」(CNET記事)という程度(失礼)のものだと思っていた。が、読んでみると、その「消費」の仕方は自分の予想を超えていた。


ロールモデル(role model)とは、「(特定の分野で)よい行いの見本となる人物」のことをいう。典型的には、有名人(かっこよさの見本)、具体的な分野で成功した「偉人」(成功体験の見本)、会社の先輩(できる仕事の見本)などが対象となるであろう。これらの見本は、「こんなときはこう行動したい」という具体的な行動規範の集合を与える。しかし本書では、具体的な行動の見本としてのロールモデルを超えて、より抽象的な「在りよう」の見本として「まったく異質で荒唐無稽な対象」でもロールモデルたり得ると主張する。

ふとあるとき愛読書『シャーロック・ホームズの冒険』に没頭しながら、自分は「私立探偵の在りよう」に少年時代から心惹かれてやまなかったことを思い出した。そして犯罪捜査という「What」にではなく「私立探偵の存在の在りよう」に心惹かれていることに気づいた。(中略)その結果見えてきた自分の志向性とは、「ある専門性が人から頼りにされていて、人からの依頼で何かが始まり急に忙しくなるが、依頼がないときは徹底的に暇であること」だった。(p.122)

シャーロック・ホームズロールモデルだなんて素でいわれたら普通引いてしまうところだ。でもここでは具体的な対象がそのまま「よい行い」のお手本となるのではなく、抽象化された「存在の在りよう」に自分にとっての「よいこと」を見出している。シャーロック・ホームズはそれを特定のコンテクストで具体化したインスタンスに過ぎない。対象をコンテクストから剥ぎ取って、そこから「よいこと」を抽出する、それをもって梅田さんは対象を「消費」すると言っているのであろう。

これには、人が通常考えるであろうロールモデルよりもさらに「抽象化作業」を要する。このことはもっと強調されるべきであろう。ここでは、ロールモデルを抽出するプロセスを強調するために、梅田さんの手法を「ロールモデリングロールモデル化)」と言ってみよう。

「よいこと」を抽出するモデル化技法は、企業経営においてさまざまな形で見出すことができる。

  • ミッション(使命):例えば、Googleのミッションは「世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすること」である。その会社の「在りよう」としてどのような役割(ロール)を担っているかを抽出して言語化したものである。
  • コア・コンピタンス:競合他社に比べて、自社の強みは何か、それを抽出し言語化したものをコア・コンピタンスという。具体的な製品機能の差にとどまらず、もうすこし抽象化された「強み(よいこと)」が抽出されれば、そこから新しい開発戦略が見出される。
  • スタートアップ企業の事業再定義:スタートアップ成功の秘訣は「成功するまであきらめない」ことであるが、それはただ漫然と同じことを繰り返すことではない。うまくいかなかった場合に、自分のアイデア、自分の技術の「よいところ」を抽出してまったく別の製品、別の売り方として再生するということがよくある。

梅田さんも、コンサルティング業での経験を通じてこのようなモデル化技法を体感し、それと並行してロールモデリング法もよりシステム化され、確立されたのではないかと思う。


しかし、ロールモデリングと従来の企業経営のモデリングとの間には重要な違いがある。上記のものはすべて、自分自身の「よいこと」を抽出する「自己モデリング」である。これに対してロールモデリングは、自己モデリングでも世界モデリングでもない、その境界領域である点にその意義がある。


自己モデリングには限界があり、あまり突き詰めると危険である。まず、自分がまだ何がしかのものでない白紙の状態の場合、自己から何か抽出できるのか、という疑問がわくだろう。さらに、実際には「何がしかのもの」というのは程度問題である。どれだけ成長し、何かを達成しても、どんな地位を得ようとも、人は自分の矮小さに気づかされる時がある。自己を極限まで突き詰めていけば、いずれは「自分は何者でもない」という絶望に達してしまうだろう。どんなにえらくなろうとも、そこから逃れることはできない。これについては分裂勘違い君がいうとおりである。

じゃあ世界モデリングのほうはどうか。唯一神グーグル様が世界中の情報を整理し、「よいこと」が何かをわたしに啓示してくれるだろうか。グーグル様は生きるための答えにお導き下さるだろうか。分裂勘違い君がいうポストモダンはこれも否定する。要するに「世界に意味なんかない」のである。だからいくら世界をインデックスしてもそこからあなたの生きる意味なんて自動的に出てこない。むしろ、Googleは世界を整理しつくした挙句に、そこに意味なんかないということを人々に突きつけてくるだろう。それを拒絶し、自分の内面ばかりを見ても、やっぱりそこにも意味なんかない。

こんなことは昔は一部のインテリの優雅な悩みだったかもしれないが、ウェブは知を万人に開放すると同時に知の「病」をも世界に広めていくのではないか。

では、その虚無感を超えて生きていくにはどうしたらいいか。ひとつの可能性は、自分が感じ取るものを基点とすることだろう。ときめいたりわくわくしたりする感覚、あるいは憤ったり恐れたりする感覚。どうせこの世に意味はないのなら、それを肯定してみるしかないだろう。自分という存在に意味がないのなら、感覚の総体としての自分に立ち返ってみる。何かに心を惹かれる、まずはその感覚を大切にする。そしてその感覚を頼りに世界を再定義し、自分を再定義し続ける。それが「直感を信じ、好きを貫く」ということではないだろうか。*1


「好きを貫く」とは必ずしも「プログラミング」とか、何らかの具体的なものに固執することではないと思う。だから、例えば本書に出てくるまつもとさんや石黒さんをロールモデルとするとしても、別にオープンソースプログラマーとして食っていく必要はない。そうでなくて、彼らのどんな「在り方」に自分が心を惹かれているか、そこからどうやって自分にとっての「よいこと」を抽出するかが問題なのだ。それは客観的に与えられる「ほんとうの彼ら」でもなければ、自分の内面にある「ほんとうの自分」でもない。


けものみちを生き抜きながら体得した「人を褒めろ」「直感を信じろ」「好きを貫け」という梅田さんの言葉は、近代的「自己」が崩壊したからこそ意味を持つのではないか。

ところで、日本の若い人たちのブログを読んで思うのは、「人を褒める」のが下手だなということである。つまらないことで人の揚げ足を取ったり粗探しばかりしている人を見ると、よくそんな暇があるなと思う。もっと褒めろよ、心の中でいいなと思ったら口に出せよ、と思うことも多い。「人を褒める能力」とは「ある対象のよいところを探す能力」である。(p137)

これは単にポジティブシンキングの勧めではなく、さまざまな対象から「よいこと」を抽出する技術の重要性を説いているのだと思う。その感覚を研ぎ澄ますためにも、もっと人を褒めろよと。

ウェブ時代をゆく」は、ウェブ時代を生きる意味なんて教えてくれないけど、ウェブ時代を生きる術を伝えようとしているのだ。

*1:だから分裂勘違い君は彼なりに好きを貫いているようにみえるのだけれど。