大企業をゆく

更新をサボっている間に今日またひとつ歳をとってしまった。ちょっとここで、大企業に勤める研究者として自分の身を振り返ってみたい。

ウェブ時代をゆく』関連で大組織と小組織の対比が話題になったが、そもそも自分はなぜ大企業に勤めるのだろうか。『ウェブ時代をゆく』の「大組織適応性」チェックリストは必ずしも当てはまらない。むしろ逆に思う点も多い。例えば、

「配属」「転勤」「配置転換」のような「自分の生活や時間の使い方を他者によって規定されること」を、「未知との遭遇」として心から楽しめる。(p93)

という点。会社の命令で赴任し、会社の命令で突然帰任させられる出向者の人々を見てきているので、日本的企業戦士の適応性としては納得するのだが…。自分にはできないだろう。*1

そんな自分でも今ここにいるのは、大企業ならではの研究職というものに意義を感じているからだろう。

大企業のゆるさと研究職

まず言えるのは、(少なくとも現状では)大企業でなければ研究者を雇えないことだ。組織を大きくして、一人ひとりのちょっとの手間を集めると、まとまった仕事になるし、一人ひとりのちょっとの余力をあつめれば、もう一人専門家を雇うことができる。そんな感じに大企業にはいろんな人が生息しているわけだ。研究者というのもそんな中の一人である。

組織が大きくなることで生まれる、大企業の「ゆるさ」がけっこう大事なんだと思う。

切迫感の張り詰め度合いが「ゆるい」ので、万事ゆるくなる。判断基準がゆるい、判断のスピードがゆるい、実行のスピードがゆるいといった風に。とは言え、そのゆるい大組織だからこそ、役に立つかどうかもわからない結晶の研究を、10年以上続けていた人たちがいて、その結晶をいろいろ調べているうちに俺はあの現象を発見・解明できたのだし、それが次の何か面白いことにつながりそうなのだ。ぬるさ・ゆるさは考えよう、使いようによってはいいものだ。
http://d.hatena.ne.jp/koichiro516/20080131/p1

多数の人間、多数の事業を集めてリスクを分散しているという点に大組織のひとつの本質がある。ここで、多様性を保つだけの「ゆるさ」がなければリスクが分散されないことに注意が必要だろう。

いちどは外の血を入れて変革に適応した彼らがなぜFOMANGNで先祖返りしたのか、というテーマについては考えさせられる。恐らく際物として扱われている間は放っておかれても、それが輝かしき未来像となってしまった途端、本流のテクノクラートに押しつぶされてしまって輝きは色褪せてしまうのだろう。いささか逆説的だが、大組織に於いては会社から期待されないことが重要なこともあるのだ。
文化の変遷への適応と流動性 - 雑種路線でいこう

「期待されないこと」というのがこの「ゆるさ」によって担保される。そうでなければ、「期待されない=切り捨てる」とならざるを得ない。その意味で、「選択と集中」や「コンプライアンス」が自己目的化して行き過ぎると企業を殺すことになると思う。とくに研究所の管理職様におかれましては、ほどほどにお仕事くださるよう…。

大企業病と研究職

しかし雇えるゆとりがあるからといって、そもそも企業が研究者を雇う必要があるのか。という疑問は残る。

研究は大学に任せておけばいい、という考えもあるだろう。産学連携すればいいじゃん、と。ただ、両方に所属した個人的な体験から言えば、大学にいるのと企業の中の人になるのとでは、(たとえ現場に立っていなくても)やはり見えるものがぜんぜん違う。当然、研究での問題意識も違ってくる。また、産学連携するにしても、大学は企業の下請けではないし、上流工程・下流工程のようなウォーターフォール的関係でもない。研究者同士の個人レベルでの対等な関係があって初めて連携ができるというものだ。

そして企業の中でも研究者を雇うのは、大企業、ある程度成長して成熟した企業である。つまり、大企業病にかかった会社だ。

大学の研究職と違って、企業の研究職は患者と向き合う医者みたいなものだとも最近思う。

企業も若いときには「今」が大事で、がむしゃらに今の事業を走り続ける。企業が成熟してくるにつれ、その老い先が気になってくるし、健康管理に気を使うようになる。学術論文や国際学会での存在感を見ると、その企業の成熟度がわかる。マイクロソフトも90年代になって研究所を設立し、今ではコンピュータ・サイエンスをリードする存在だ。Yahoo!も研究所を設立したのはここ数年のことで、IBMから何人も研究者が移籍した(まあYahoo!はそういう成人体質の会社だから今苦境にあるんだろうけれど)。

もちろん、研究者を雇ってもその成果が生かされるかは別問題で、まさに大企業病ゆえに成果を死蔵してしまうこともある。*2

あと、若い人だけでなく、大企業の研究所で決して高くない給料でいつ世の中で使われるかもわからない技術の研究(研究テーマの話ではなく、官僚的な組織でせっかくの良い技術が外に出ない構造のことを言っている)をしているような人。たくさんいるのは知っている。寄らば大樹のつもりかもしれないけど、大樹だって倒れる。一度しかない人生なんだから、社会に影響を与えるようなことをしたらどうだろう。いまだに大企業の研究所が優秀な人材を死蔵させているのがこの業界の問題だと思う。この「情報大航海プロジェクト」だけでなく、そういった人たちに外に出てきてもらうような(別に転職や起業しなくてもいい)ことを促進するようなことを大企業や国には期待したい。
玲瓏: ウェブ国産力 日の丸ITが世界を制す

「せっかくの良い技術が外に出ない構造」というのは確かにそのとおりで、困ったものである。ただ、(本文にも注記されているが、)個人が組織を辞めて外に出てしまえばいいというものではない*3。多様性を取り込み、それを生かすことのできる組織が望まれているのだ。

大組織 vs. 小組織

多様性を取り込み、それを生かすことのできる組織。ここでまた大組織対小組織の話に立ち返る。ウェブ技術が進展していけば、もしかすると小さな組織こそがその理想に近くなるのだろうか?

大企業のように大きな組織がよいのか、小さな組織を緩やかに連携させるのがよいのか?

パソコンの隆盛とともに育った世代でシリコンバレーなんかにいるような自分にとって、両者の対立で後者が前者を打ち負かすという構図は正直魅力的だ。しかし、実際にはそんなに単純な話ではないだろう。今起こっていることを描くには大組織と小組織を対比的に描いたほうが解りやすく、特に日本において『ウェブ時代をゆく』の表現は効果的だったと思う。しかしこれは、小さな組織だけがウェブ技術で力を得て、大きな組織とは別に発展していくとか、あるいは大きな組織を打ち負かすということまでは意味しない。

このアナロジーとして、データセンターのような大規模集中システム対P2Pのような分散システムという構図に思いが至る。これまでのシステムの進化の過程をふりかえると、構図はそんなに単純ではないことがわかる。例えばグーグルやアマゾンの大規模システムは、これまでの分散処理技術の発展の上に成り立っている。インターネット的にはこれは集中化であるが、メインフレームのようなものから見ればこれは分散システムである。今後も仮想化技術が進んでいくことで、分散か集中かという話はあまり問題にならなくなっていくだろう。

大組織対小組織の話も同じように、長期的にはむしろ両者の境界がどんどん曖昧になっていくのではないか。例えば、Googleという大組織は、小組織のよさを保ちながらスケールすることに挑戦している。今はGoogleという特殊な会社の試みではあるが、そのうち大組織対小組織の話がナンセンスになる時も来るかもしれない。

ウェブ技術と大企業が共通してもっている点が二つある:

  1. 多様性をゆるす「ゆるさ」がある。
  2. 小さいものを多数集めて大きなものにする。

大企業の問題はこの二点がうまくかみ合っていないということではないか。つまり、群集の叡智に必要とされる「多様性の中から出てくるものを集約する仕組み」が十分機能していない。それどころか、その「ゆるさ」を奪うためにITを使いかねないところに不安を感じる。

このあたりの問題意識と、自分の研究の方向性がうまくあっていけばいいなあと思いつつ、今後もブログでいろいろ書いてみたいと思う。

*1:よく考えてみると、このリストは、大企業本来の特性と、終身雇用制など日本ならではの大企業の特性の両方に基づいているように感じる。日系企業とはいえ、雇用形態から労働市場まで基本的にアメリカンな環境だからやっていけているけれど、日本の典型的な大企業の本道をゆく適性は自分にないと思う。

*2:「こと”も”ある」というレベルではないか…

*3:「外に出てくる」=「もっと会社の外に見えるようなことをしろ」、という意味では大賛成。会社の中に篭って会社の中だけに意味のある技術を開発し、それが結局事業に生かされなかったというのでは悲しすぎる。