知の開国:大学の若手研究者ができる4つのこと

日本のIT業界は鎖国状態に近い。国内だけで回るシステムが産官共同で構築され、閉じた世界の中で生産性は一向に上がらず、日本発のソフトウェアやサービスが世界に広まるという事例が極端に少ない。

残念ながら同じことが、大学を中心にした学問の世界でも起きているように思う。国内だけで回るシステムが産官学で構築され、優秀な頭脳が低い生産性の中で無駄遣いされている。この事態を変えられるのは、危機感を持った若い研究者たちだと思う。もちろんこれは、大変難しい問題だ。日本全体の構造的な問題なので、一人の力ではどうにもならないと感じるかもしれない。それを力で変えようとすれば、政治的権力を得る必要があり、それを得たころにはもうあなたは今のあなたではなくなっている。危機感はそのうち無力感となり、そして何も感じなくなってしまうかもしれない。

それでも若手研究者に今から具体的にできることは、ある。

(1)英語のレジュメを書いてみる(書かせてみる)。

米国では博士課程の学生から教官までみなレジュメ(resume, CV)をウェブで公開している。公開するかはともかく、まず教官も学生もこれに見習って英文のレジュメを書いてみてほしい。それがあなたの「英語圏から見た姿」だ。学生に作らせようとすれば、指導教官もまた、自分のレジュメが恥ずかしくないようにしたいという意識も働くだろう。ダイエットで食べたものや体重を記録するとよいというが、それと同じ理屈だ。自分の現状を認識することが第一歩である。

研究室や個人の英語のウェブページもまだまだ充実していないと思う。研究に関する(英語の)キーワードを入れて、日本の研究室のページが引っかかることは非常に少ない。

(2)日本語論文を書かない(書かせない)。

さて、英文のレジュメをみると、自分のした仕事のかなりの割合が日本語でなされた国内向けのものであることに気づくかもしれない(他の分野は知らないが、特に情報系)。以前にも書いたが、次のステップとして日本語論文をやめてみることをお勧めする。ローカルな研究会などで情報交換を日本語で行うのはよいとして、正直、論文まで日本語にする意味がわからない。大変もったいないことをしていると思う。

研究者の方は知っていると思うが、情報系の分野で論文のサーベイをする場合は次のようなサイトをよく利用する:

これを使えば、論文の参照関係を手繰って関連する情報を効率的に収集することができる。学術論文がウェブになっているのだ*1英語圏にはこうしたウェブ、あるいは梅田さんと羽生さんの言うところの「高速道路」が充実している。しかし、ここから日本語の論文にたどり着くことはない。こうしたウェブが充実すればするほど、そこで引っかからない論文の存在感は小さくなる。また、研究者の業績を調べようと思ったら、みなDBLPを見る。どんな論文を発表して、どんな共著者がいて、という情報が簡単にわかる。これももうひとつのウェブである。もちろんここに日本語の論文はリストされていない。

こういった英語圏の充実振りを見ると、これに習って日本語版も、という考えになるかもしれないが、ここでやるべきことは日本語版を作って引きこもることではないと思う。論文を英語で書くのに比べて、日本語で書くことのデメリットは相対的に大きくなる一方である。今すぐにでもやめて、有限の時間を大切に使ってほしい。

なお、ほんとうにスゴイ論文は日本語で書いても外国で読まれるというけれど、ほとんどの論文は「ほんとうにスゴ」くはない*2。そこまでスゴくなくても十分価値があるのだから、ぜひ世界に公開してほしいと思う。

(3)無駄な学会を退会する。

情報系の学会だけでいったいいくつあるのか考えてほしい。IEEEACM以外に学会はいらない、とまでは言わないが、それにしても国内学会が多すぎると思う。もちろん、学会を新しく作るのが一概に悪いとは言えない。新しい学問を興すには新しい学会が必要だという考えもあろう。新しい学会を設立することが業績にもなるかもしれない。だが、つくった学会が淘汰されずに残っていくことが問題だ。学会の数が増え、大学の研究者はどんどん忙しくなっていく。日本語論文をやめたくてもいろいろ頼まれてしまう。そしてしがらみの重力で、日本がブラックホールのように収縮していくのだ。

学会を淘汰するには、会員がやめればよい。特に若い先生たちが退会すれば、その学会は続かなくなるだろう。しがらみもあって、踏み切るには勇気がいるかもしれない。でも、辞めるのはあなたが怠惰だからでも不義理だからでもない。生産性を高め、より大きな貢献をするためだ。

なお、梅田望夫流でいえば、「しないことリスト」は明確でなければならない。個人個人が「日本の学会はひとつに絞る」「日本の学会はすべてやめる」など具体的な基準を決めるとよいかもしれない。

(4)官僚との付き合いを減らす。

大学の先生になる人は、私利私欲よりも公のことを考え、ボランティア精神を持つ人が多い。それ自体はすばらしいことだが、それが構造的な問題と組み合わさった場合には、必ずしもいい結果をもたらさない。大学教授の社会貢献として、識者として政府の委員会に出席し、国策に貢献することが求められることがある。若手の研究者も、えらくなっていくに従ってそのような委員を依頼されるようになるだろう。引き受ける前に、これが本当に国のためになるのか、大局的な観点からしっかり考えた上で決断してほしい。考えなければならない二つの側面がある:

  1. 官僚の求めるままに何かしてあげることが必ずしも国のためにならない。
  2. 有限な時間をほかの事に使ったほうがもっと国のためになる。

前者は、これまでも国家プロジェクトの弊害などを取り上げてきたし、官主導の弊害は多くの人が指摘している。ここでは後者を強調したい。本当に他の誰でもなくあなたがやる必要があるのか?

考えてほしい。そもそも、政府には独立行政法人という形でいろんな研究所があるではないか。技術的検討なら彼らでもできるはずだ。あなたがわざわざ識者として意見するまでもない。大学教授ができることは、せいぜい彼らの考えへの権威付けにしかならない。それに、もし自分以外の誰も満足にできないと思うのなら、教育機関として大学は何をやってきたのだ、ということになる。むしろ、大学の先生としてあなたがすべきことは、世界的視野を持った研究者を育て、そういった研究機関に輩出することではないか。

情報が希少だった時代であれば、大学教授は総合的なアドバイザーとしての役割を持っていたかもしれない。だから、上の世代の大学教授にとっては、識者として官僚にアドバイスすることには意味があったであろう。だが、情報がコモディティ化した時代においては、大学教授の役割もおのずと変わってくるはずだ。その上で、大学でなければできないことは何か、よく考えてほしいと思う。

もちろん、国の政策に意見をするなと言っているわけではない。専門的な立場で指摘したいことがあれば、パブリックな形ですればよい。意見がいいたければブログに忌憚なく書いてみてはどうか。

*1:というか学術論文こそがウェブの原型といってよいわけで、このように発展するのは必然的といえる

*2:リンク先のジレンマは、本来「情報公開のジレンマ」であって、その戦略は言語圏に束縛されるべきものでもないと思う。情報隠蔽したければそもそも論文に書くこともない。