『ウェブ時代5つの定理』:第4定理の証明をめぐって

証明されなければ定理とはいえない…。理系の人間として、最初はそんな無粋なことを思いながら『ウェブ時代 5つの定理』(isbn:4163700005)を読み始めた。だが第1章(第1定理)を読み進めていくうちに、「定理」の比喩するところがなんとなくわかってきた。この本に集められた言葉は単に羅列されているのではなく、それぞれ梅田さんの実体験と結び付けられて語られている。これが引用された言葉に説得力を与え、まるで定理に対する証明を与えているかのようである。つまり、ここでいう定理は「実体験で裏づけされてきた言葉」ということだろう。

ここに集められた言葉は、梅田さん本人だけでなく、シリコンバレーに象徴されるような場で多くの人によって証明されてきた(体験されてきた)ことである。僕は起業には携わっていないけれど、ここに書かれている言葉たちに深く共感するし、起業というコンテクストを超えて普遍性のある言葉だと思う。


ところが、最初の3章(3定理)に比べて、(また第5とも比べても)、第4の「グーグリネス」は趣が異なる。


まずは「グーグリネス」という定理の名称。なんか「松下精神」みたいな感じだ。グーグル社員が自らを称するならともかく、一般的な定理の名前としてはちょっと違和感がある。

グーグリネスとしてまとめられた言葉たちは、力を手にしてしまったものが感じる倫理観と使命感をにじませており、実に生々しい。が、生々しいがゆえに、これがウェブ時代をゆく普遍的な言説なのか、グーグルという個別的な事象なのか、そこがまだ見えない。

グーグルの中の人が言っていることはわかったけど、外の人はどうなるのか。グーグリネス―グーグル的な何か―(あるいはGマシーンというべきだろうか)が行き着く先での社会。その中で組織は、企業は、労働はどうなるのか。

この第4章は、グーグルという現象を目の当たりにして、これはどういうことだろう、と観察している段階にみえる。さまざまな言葉を紡ぎだしてきた梅田さんをして「グーグリネス」としか言いようのない何か。グーグルという言葉を使わずに「それ」が表現できたときにはじめて、それは普遍性を持った「定理」として現れてくるのではなかろうか。

もちろん、これは梅田さんの書き方が足りないのではなく、まだ誰にもわからない現在進行形のものなのである。まだ誰も証明できていない定理、いや、「予想(conjecture)」なのだ(あるいはまだ明確な予想すら見いだされていない段階かもしれない)。

数式を書けば、数式が残る。途中でやめれば、書きかけの数式しか残らない。当たり前のことだ。
でも、教科書には、書きかけの数式なんて載っていない。建築現場から、すでに足場はかたづけられている。だから、数学といえばつい、整然と完成したイメージを持ってしまう。でも実は、数学が生み出されている最前線は、工事現場のようにごちゃごちゃしているのではないだろうか。
数学を見つけ出し、作り出してきたのはあくまで人間だ。欠けがあり、震えて揺れる心を抱えた人間だ。美しい構造に憧れ、永遠に思いを寄せ、無限を何とか捕まえたいと思う人間が、数学を現在まで育ててきた。
(『数学ガールフェルマーの最終定理isbn:4797345268 p.97)

結城浩さんの数学への(そして人間への)愛情に満ちた一節から言葉を借りれば、グーグルはまさに建築現場であり、第4章の言葉は書きかけの数式である。
いずれにせよ、まだ証明されていない定理があるということは大変刺激的なことである。第4章の言葉は、それが証明されていないが故の「生々しさ」をもって読者に迫ってくる。

そして、この定理を証明するのはグーグルの中の人とは限らない。むしろ外の人なんじゃないか。大定理の証明には無数の人の貢献が必要なのだ。そしてウェブ時代には、今を生きる人それぞれが、好むと好まざるとにかかわらず、この最前線の「工事現場」に立たされているのだと思う。僕も工事現場で足場に躓きながら、この証明に参加していきたい。それがこのブログであったり、本業の研究であったり、あるいは人とのつながりだったり、いろいろ数式を散らかしている。


梅田さんは本の執筆は現在「サバティカル」中だが、その中で第4定理の証明に出会うことがあるかもしれない。そのときはまた筆を執って証明の言語化をお願いしたい。

私は驚くべき証明を見つけたが、
それを書き記すには、この余白は狭すぎる。
― ピエール・ド・フェルマー
数学ガールフェルマーの最終定理』より

「それを書き記すには、ブログやウェブのコラムは狭すぎる」そんな証明に出会えますように。