『日本語が亡びるとき』を読む

梅田さんの釣りにかかって、水村美苗の新作エッセイ『日本語が亡びるとき』を日本から取り寄せて読んだ。すでに各所で指摘されているとおり、論考にはかなり飛躍や不整合があって、これが論文ならrejectだと思う。だが、エッセイとしては面白く、読み応えがある。国語としての日本語の成り立ちとか、考えたことも無かった人には三章から五章のくだりは大変刺激的であろう。そんなこと前からよく知ってるよ、それにちょっと偏ってんじゃないの、という人も一章・二章を中心に「小説」として楽しめる。その中間の多くの人にとっては、問題意識をより多くの人と共有するのに役立つのではないか。

三章では、現在の「国語」である日本語がいかに成り立っているか、日本近代文学が「国民文学」としていかに日本という近代国家の成り立ちに寄与しているか、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』をベースにしつつ語っている。

古来人類は文字を持たず、ローカルに自分たちが話す「話し言葉」をつかっていた。文字が発明されそれが広まる過程で、「書き言葉」は自分たちの話す言葉ではない「外の言葉」として文明とともに導入された。このため、読み書きをするには自分たちの話す言葉ではなく外の言葉を使う必要があった。この外から伝来した書き言葉のことを「普遍語」、自分たちの話す言葉を「現地語」と呼び、この両方をつかう人を「二重言語者」と本書では呼んでいる。その後、普遍語としてやってきた文明の抽象的な概念が「翻訳」されることで、現地語でも読み書きができるようになり、限られた二重言語者以外の多くの人が自分たちの言葉で世界を語れるようになった。そのおかげで言語を軸とした「国民国家」というナショナリズムが作られることとなった。この自分たちの、国民の言葉を「国語」という。

本書の主題は、英語とどう向き合い、日本語という国語をどう守り、磨いていくかを語ることなので、西洋文明がいかに普遍語として日本に到来し、現在の近代的な国語がどう成立したかに興味の中心がある。第三章における議論は、日本語の(あるいはほかのいかなる言語の)歴史を包括的に取り扱ったものではないことに注意されたい。近代日本にとっての普遍語として英語、そしてその前の世代の普遍語であるラテン語に話は集中している。

読み書きのメディアが発達していない時代、書き言葉は希少であった。ヨーロッパでは学問のための書き言葉としてラテン語が使われていた。印刷技術が発達し、これが現地語に翻訳され、現地語でも学問ができるようになった。それがヨーロッパにおける「国語」の誕生につながる。

近代の「日本語」は、西洋の文明を自分たちの言葉に翻訳することでなりたち、これが西洋的国民国家としての日本の形成に寄与した。この近代的「国語」としての日本語に対する普遍語にあたるものが英語であり、そして今「英語の世紀」の中で「日本語」が危機にあるとしている。

しかし、近代日本語の成り立ちにおける普遍語としての「英語」と、今が「英語の世紀」というときの普遍語としての「英語」はその意味合いがちがうと思う。本書ではそれを区別せず、それが議論に混乱を招いているように感じる。ここではそれを次のように分けて考えたい。

帝国主義的普遍語としての英語

まずは前者を仮に「帝国主義的普遍語」と呼んでみたい。それはこれが普遍語といっても、実際にはヨーロッパの国語であり、植民地化の対象である非西洋に支配者の立場としてやってきたものだからである。

このような西洋の侵略に対抗する手段として、西洋的概念を現地語に翻訳していくことで、国家の基盤となる「国語」をつくっていく。本書に書かれているとおり、これに成功した数少ない例が日本語であり、日本という国民国家である。ヨーロッパにおける国語と、日本における国語はだいぶ生い立ちが違うわけである。

この時代の普遍語は、「普遍」といっても、その実は覇権国家の国語である。植民地時代が終わり、冷戦時代が終わっても、これまではアメリカが覇権国家として、言語と通貨とイデオロギーを支配してきた。アメリカの国力を背景に英語が普遍語のような顔をして世界を席巻している、という見方もできるだろう。

筆者は、言語間の翻訳の関係が「非対称」であるといい、英語を母語とする米英の人々に複雑な思いを抱き、ベネディクト・アンダーソンの英語への向き合い方にも不満を述べる。筆者が感じるある種の不平等感はそのような世界観から来ている。

世界がこのままであれば、「英語の世紀」という話も、「100年前からある議論だよね」「アメリカの繁栄は長くは続かないよ」「自然科学では昔から英語ですよ」という批判が本書を読むまでもなく成り立ったであろう。

コモディティ化した普遍語としての英語

しかし、筆者の言うところの「英語の世紀」というのは「アメリカの世紀」ではない。本書ではそうはっきり書いていないが、第六章でインターネットの発達を英語の世紀の背景に上げており、ある程度の認識がそこに感じられる。ここがもう少し描ききれていれば、と思う。以下、筆者の議論から発展して、自分の考えを進めてみたい。

経済のグローバル化とウェブの発達で、「非西洋」の国々や、共産圏であった東欧諸国が台頭している。いや、「国」が台頭しているというよりは、その人々が「英語圏」に参入している、というほうが正確かもしれない。それは国民国家の覇権争いでも、植民地支配からのたたかいなどでもなく、個人個人のビジネスチャンスであったり、貧困からの脱出であったりする。いまや英語圏は地理にとらわれず広がり、ネイティブの占める割合はどんどん減っていく。

「英語の世紀」の向かう先では、英語はそれを母語としない人々に徹底的に壊されることで普遍化する*1。例えていえば、マイクロソフトが自社のOSをオープンソースとしてコミュニティに寄贈してしまうようなものである。それは、単にマイクロソフトのOSがデファクトスタンダードである、というのとは違ったインパクトを持つだろう。

それは、特定の覇権国家が押し付ける国語でもなければ、ラテン語のように少数のエリートのための権威的言語でもない。印刷技術、ウェブ技術を経て知がコモディティ化した上での普遍言語である英語は「コモディティ言語」である。「聖書はラテン語です」「論文誌は英語です」といったレベルではない。これに対抗するというのは、特定の支配者に対抗するというのではなく、世界中の誰でもないその他大勢に対抗するということである。それがどんなものであるかは、ウェブ時代を生きるものであれば肌で感じているのではないだろうか。

ここまで考えてみると、これ以降の筆者の主張には少し疑問を感じる。「英語の世紀」の普遍語に日本近代文学で立ち向かおうというのは、航空機の時代に戦艦大和で戦おうというようなものではないか。戦艦大和がどんなにすばらしいかということと、それで勝てるかということは別問題である。日本近代文学の上に今の日本語が成り立っているのは、筆者が言うようにすばらしいことであろう。でもその成功体験から学ぶには、その時代の特殊性を考慮する必要があるだろう。国語教育として日本近代文学をもっと読むべきというのはわかるが、それはもう少し批評的になされるべきはないか。

日本語は「亡ぶ」か

続く議論で、<叡智を求める人>がどんどん英語にアクセスするようになり、英語でものを書くようになっていき、それは究極的には「文学の言葉」にも影響を与えると筆者は指摘する。

自然科学はすでに英語に一極化されているが、重要なのは、そのような動きは「ここまで」と線を引けるようなものではないことにある。英語への一極化は、すでに自然科学を越え、社会科学、人文科学へと、今は緩慢に、しかし確実に<学問>の中で広がっている。そして、それが、いつしか<学問>の外の領域へと広がらない理由はどこにも無いのである。(p.251)

<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する。そして、いうまでもなく、<テキスト>の最たるものは文学である。(p.253)

自分も<叡智を求める人>のはしくれとして、「学問の言葉」としては日本語を放棄している*2。だが日本語で書くことをやめたわけではない。確かに英語で書いている論文に比べればここに書いていることは駄文に過ぎないが、それでも日本というコンテクストで日本語で書くべきことがあると思っている。それに、「文学の言葉」として日本語を読むのをやめたわけではない。叡智を求めようが学問をしようが、情感を持った人間である。日本語ならではの表現の仕方を愛で、まさに筆者の言うところの「翻訳されないもの」も楽しんでいる。

筆者からすれば、そんなものは「現地語」に過ぎない、というかもしれない。筆者は、日本の現代文学は文学として「幼稚」なものだという。しかし、この部分の議論については、かなり勇み足に感じる。文章が大量に出版され、結果的に玉石混交になったということと、時代におけるそれぞれの文学のあり方ということがごっちゃになって論じられているように思う。仲俣さんが、おまえどこみてんだよ、と憤る気持ちもわかる。この本を「文学論」として読むならば、仲俣さんの批判には共感する。

筆者の言う「日本語が亡ぶ」というのは、帝国主義的普遍語に対抗する近代的「国語」がその役割を終えるということだと思う。その結果、日本語が「現地語」に「堕ちる」としても、それは帝国主義支配下の「現地語」というイメージとは違う、もっと豊かなものに思える。近代の構図から解放された、もっと自由な<テキスト>を楽しんだらいいと思うのだが。それを「現地語」というのなら、現地語上等である。

もちろん、放っておいて日本語がこのまま豊かな状態に保っていかれるとはいえない。長い目で見ると、普遍語だけで何でも事足りる、という時代が来るかもしれない。日本語を大切にし、それを磨き上げる人たちがいなければ筆者が言うように日本語は廃れていき、「この時代になんで日本語なんか使う必要があるの?」という疑問に直面することになろう。だが、磨き上げる方向性は近代のそれとはおのずと違ってくるはずだ。

「国語」大成功の副作用

日本語という国語が誕生し、自分たちのことばで世界を語ることができるようになった。それはすばらしいことである。だがその反面、「国語」の大成功が、変化していく世界を日本人から見えなくさせている部分がある。

必要なのは世界性の認識であって、近代の国語は、近代時点での世界性認識の結果にすぎない。現代的世界性の認識のもとで、「国語」は変容していくのは自然なことである。今はその過渡期であり、多くの日本人はいま世界性を見失っているかもしれない。筆者の憂国の思いもわかる。でもそれを安易に復古的な考えに結びつければ、世界性の認識を見誤ることもあるだろう。

日本語が「滅びる」でなく、「亡びる」を本書で用いているのは、日本語が消滅してしまうのではなく、その輝きを失ってしまうということだと思うが、この「亡びる」という言葉の導入として、『三四郎』の中の広田先生の言葉が参照されている。三四郎の「日本はだんだん発展する」という意見に、広田先生は「亡びるね」とこたえた。筆者はそこに、『近代国家として日本がまだいかに脆弱であるかを知る漱石の目(p156)』をみる。この広田先生は、誰よりもよく西洋のことを知っているのに、ほかの学者たちと違って何も書こうとしない。彼はそれゆえ「偉大なる暗闇」と評される。その背景を筆者は『西洋語を誰よりも読んでいるからこそ、日本語で書いてそれを公にすることの「無意味」を、<世界性>をもって、知りすぎているのである。』と指摘する。まさに、英語の側から見れば、日本全体が「偉大なる暗闇」であっただろう。広田先生の「亡びるね」は、日本に働く内向きの力の限界を見据えていた上での言葉ではないか。広田先生の諦念を現代的な意味で考え直さなければならないように思う。

教育論について

第七章は、それまでの筆者の考察をもとにした英語教育、日本語教育への提言である。教育というのは誰でも身近なものだけに、各自が「俺理論」を展開したくなるものである。だが、著者の教育論について何らかの結論を導くにはもっと科学的な検証が必要なので何ともいえないし、対案となるような「俺理論」も持ち合わせていないので、ここでは感想を述べるにとどめる。

まず、英語については全員がバイリンガルなどと平等主義を目指さずに、一部の英語エリート戦士を養成せよと主張している。その理由として、官僚などのエリートの英語力の不足が、日本の国益を毀損していると指摘している。その指摘はそのとおりなのだと思う。政治の世界だけではなく企業でもそうだ。ただ、英語教育を変えれば解決するかは難しいところだ。官僚組織が内向きの力を持っている限り、どんな英語教育も出世のアイテムとして消費されるだけだろう。それは、大衆における「英会話教室」や「語学」の消費のされ方と同様、ドメスティックな活動になってしまう。

日本語をしっかり教える。これも大切なことだと思う。だけどそのために日本近代文学を教えればよい、というものではないのでは。過去の闘いの歴史としてコンテクストとともに批評的に教えるならともかく、近代文学を経典のように考えるのはどうかと思う。

筆者は教育における悪平等を憂い、ヒステリックな英語教育熱を憂う。それは結局、西洋から取り入れた自由と平等の概念も、普遍語としての英語も、日本ではすべてネタとして消費されてしまうということなんじゃないか。そんなある意味平和な空間ができてしまったのも、近代国語が成功しすぎた副作用なのでは…。ナショナリスティックな響きを持つ彼女の叫びは、やはり格好のネタとして消費されるかも…。そんな中での彼女の憂国のたたかいは、「水村さん、気持ちはわかるけど、そんなやり方では闘えないよ」といいたくなってしまう。

まとめ

自分はその結論には賛同できないが、それでも、批判を恐れずアクションを含めて提示したことは意義があると思う。自分などはこの「英語の世紀」にあたって、自分自身がどうするかは考えられても、日本がどうするべきかまでは提案できるまでに至っていない。反論したい部分もあったが、問題意識は共有できたと思う。

梅田さんはこの本を紹介するに当たって、賛否は別として「プラットフォーム」にならないか、と書いている。そのことばを借りれば、プラットフォームの上に乗っている「アプリケーション」に難があるからといって、全部を捨てるのはもったいない、そんな本である。結論だけを受け売りせず、批評的に読むことのできる人にお勧めしたい。

*1:水村さんの議論には英語ネイティブに対する複雑な思いが込められているが、アメリカこそ自分の「国語」を奪われつつある人々なのである。その悲しみにも目を向けてあげてほしいと思う。

*2:id:min2-fly さんがよい指摘をしている。論文誌の論文というのは、研究のプロセスの最終段階(企業ではまた違うが)であって、それまでに長いプロセスがあり、そこでのコミュニケーションで最先端の議論が取り交わされるというわけだ。その指摘に付け加えるならば、英語の世紀では、単に最終生成物の論文誌が英語というのではなく、それに至るまでのプロセスが英語ということかと思う。ウェブ時代に英語圏が広がっていく、というのは「論文誌はこれまでも英語だよ」というのと違ったレベルのことである。日本語での研究コミュニケーションを否定しているわけではないが、日本の仲間内だけで固まることの功罪は意識したほうがよい。