盤上の自由のために:シリコンバレーで将棋本を読む(2)

シリコンバレーから将棋を観る』では、現代将棋のプロたちの世界とシリコンバレーとを重ね合わせた記述が多く見られる。これには、競争の中を生き抜いてきた人々に共通する雰囲気を将棋のトッププロたちが持っているという点もあるかもしれない。が、それよりも興味深いのは、現代将棋におけるイノベーションのあり方、進化の仕方にシリコンバレー的なものを見出している部分である。

本書では、「知のオープン化」の中で棋士たちが多様な手を互いに探索・共有している様が、現代将棋の今として描かれているが、この点だけを見れば、シリコンバレー的と言わずともたとえば日本のWebでも起こっていることではないか、と思うかもしれない。

確かに、オープンな情報共有による進化の速さは2ちゃんねるニコニコ動画でもよくみられる。コンテンツが誰に帰属するか関係なくさまざまなパターンの探索がすごい速さで行われるところは、むしろ将棋以上であろう。また、広い意味でのイノベーションだって、たとえばニコニコ動画という場自体がイノベーションといえるし、タグや字幕の新しい使い方それぞれもまたイノベーションであろう。

現代将棋におけるイノベーションが、日本のWebでの典型的な例と違うところは、将棋という伝統的で確立した領域において、権威と戦い、破壊的創造を果たした点であろう。そのことが第一章に描かれている。


近代将棋では、将棋自体の明確なルール以外に、伝統やある種の美学が重視された。過去の偉い人が築いてきた伝統に反するなとか、上の人に対して邪道な手を指すとは品格がないとかいった「イノベーションを封じる村社会的言説」があり、これが将棋の幅を狭めてきた。このように「将棋界に存在していた、日本の村社会にも共通する、独特の年功を重んずる伝統や暗黙のルールが盤上の自由を妨げていた」ことを羽生さんは問題視していた。そして彼は名人戦初挑戦の時に「普通の定跡形は指さない」と宣言し、「盤上の自由」を得るための戦いに挑んだ。

そして今では、従来は邪道と言われて省みられなかった手が自由に指されるようになり、現代将棋は序盤から気の抜けない緊張感をもつこととなったのである。

トップに上り詰めたあとも羽生さんは若い棋士からも積極的に学ぼうとしている。梅田さんが「大人の流儀」とよぶ、若い人を受け止め、新たに戦いを挑む人たちを歓迎する大人の態度が、イノベーションを生み出せるような自由な環境を作ることに成功している。


シリコンバレーでも、この「盤上の自由」のための破壊的創造が象徴的である。

グーグルは自らのミッションを遂行するために、たとえば出版業界(本)、通信業界(携帯)と戦っている。ビットとして提供しうるあらゆるものをスケーラブルに提供し、広告モデルの下に市場を破壊していく。もちろんグーグルだって私利私欲でやっているわけだけれど、シリコンバレーの人々は、基本的にそういうチャレンジを支持する。革新的と喝采を受けたiPhoneであっても、ひとたびイノベーションを阻害するような不自由を利用者に押し付けようとすると、たとえそれがビジネス的に理にかなっていても批判される。「盤上の自由」を保つためには絶え間ないチャレンジが必要なのである。グーグルだって絶えずチャレンジにさらされている。

もちろん、日本のWebで見るイノベーションや進化のスタイルも大事である。将棋でたとえれば、それは将棋の駒を使って別の遊びをよそで始めるタイプのイノベーションである。権威に縛られた盤上を離れ、仲間内で将棋倒しとか始めてしまう。「才能の無駄遣い」とかいわれながらものすごい絶妙な将棋倒しが作られたりする。既得権に束縛されない空間で、新しい遊びは爆発的な進化をとげ、もともとの将棋より断然面白くなってくる。それによって既得権や権威が戦わずして相対化される。ある意味高度に洗練された戦い方かもしれない。

ただ、それがうまくいくかは時と場合による。微妙なところで落とし穴にはまりかねない。相対化によって状況をひっくり返せればよいけれど、下手をすると正面からの戦いから逃げたことで事態を悪化させ、既得権者から搾取された状態を存続させるだけになる。日本の政治やIT産業などに閉塞感をもちながらも、現状の中に慰みを見出すしかない状況に有権者や技術者が甘んじているとしたら、そんな落とし穴にはまっているのかもしれない。

「盤上の自由」のためには盤上でリスクをとって戦わなければいけないときもある。羽生さんがそうしたように。

日本の伝統的世界のひとつである将棋にだって破壊的創造がおき、より自由な世界が生まれることがありうる。梅田さんが現代将棋に見出したシリコンバレー的なものは、今後の日本を考えるにあたって勇気を与える。