小説『日本語が亡びるとき』を読む

水村美苗の新作小説『日本語が亡びるとき』は、作者の二作目の小説『私小説 from left to right』を参照する形でのメタ私小説となっている。アメリカで生活しながらも英語に馴染めず、日本語にこだわり続ける主人公が、日本にもどって作家となり、その後どのような考えに至ったかを、主人公の立場から評論のような形式で語っている。

主人公の「私」が最終的にどういう考えにいたったか、その衝撃のラストが問題作となっている。この結論について異論反論を戦わせる人もいよう。そしてそれを見た人がもうこの小説を読んだつもりになってしまうかもしれない。しかし、この小説の醍醐味はなんといっても、その結論に至るまでの過程である。その物語は、特に英語圏で奮闘する人々の心を打つ。それはなぜだろうか。

「私」は12歳のとき、父の仕事の関係で、好むと好まざるとにかかわらず英語の世界に放り込まれた。好むと好まざるとにかかわらず、である。父親は自分の仕事の都合で来たからよい。自分はビジネスマンとしてのアイデンティティを持ち、日本を、あるいは会社を代表しているという自負ももてたであろう。だが家族はどうか。「私」は、日本で何不自由なく暮らしていたに違いない。それが本人にとって何の積極的理由も無いのに突然いままでの平和を奪われ、無能感におとしいれられる。英語という国語ができない「私」は「お馬鹿さんのクラス」に編入されてしまった。なんという屈辱感か。子供たちが体験する英語は、父親が体験するビジネス英語よりももっと直截的に、12歳の少女の心に容赦なく乗り込んでくるのだ。それは、「おまえは何者だ」と突きつけてくる英語である。

主人公の「私」が日本近代文学を心のよりどころにするのも無理は無い。それは開国、そして文明開化の過程で突然英語の(あるいは西洋の)洗礼を受けた日本人たちが「日本人」としてのアイデンティティを確立するために闘った時代の文学である。「私」の日本に対する思いの中で、日本近代文学の巨匠たちは林に聳え立つ大木としてイメージされている。そして自分はそのふもとで文章を書いていたい、というのだ。日本近代文学へのこの思いには、父性の希求さえ感じられる。

望郷の思いの中で理想化された「日本」と「日本文学」。しかしその幻想は、ついに帰国を果たしたときに打ち砕かれる。日本でものを書き始めた「私」の目には現代の日本文学が「幼稚な光景」とうつる。

そして「私」の運命は、渋谷の街で出会った占い師の言葉によって縛り付けられることになる。―「外国に縁がありますね」

彼女はこの言葉で呪いにかけられたかのように、海外とかかわっていくようになる。自分から積極的に外国に行こうとは思っていないのに、英語のできる日本作家として海外の大学に招かれる。そのたびに占い師の言葉を思い出し、招待を受ける以外に道は無いと観念するのである。好むと好まざるとにかかわらず背負わされたもの。その宿命を受け入れながらも、それを最後までやり通すことで何かを得ていかなければならない。この小説は、村上春樹などの作品にも通ずるような文学的なテーマを、まったく別の筆致で描いた物語である。


これまで、この物語は外交官・駐在員・学者とその家族といった一部の人に限られていたかもしれない。それ以外の人は「国語」によって守られてきたともいえる。小説の中でも、「私」は、バイリンガルで日本を守る少数のエリート戦士の活躍を希求している。

しかし、天然資源の無い日本がこのウェブ時代に生き延びるには、それは一部の人々の物語では済まされなくなるだろう。ウェブとは学問の世界にあった知のツールのコモディティ化である。学者や作家の物語は、これからさまざまな人の物語と重なっていくであろう。ウェブ時代では、その内容がビットに変換できて、何らかのスケールメリットがあるような仕事は、多かれ少なかれ英語圏の影響を受ける。学者や小説家はその一例に過ぎないのだ。さらに、自分が直接そのような仕事にかかわっていなくても、家族や友人が英語圏にかかわれば、それに影響を受ける。Twitterのようなツールで友人が英語でつぶやき始めるのを目の当たりにする。英語圏が自分のすぐそこまで来ていることを実感するようになるであろう。ある意味、日本人がついに地続きの「国境」を目にすることになるのだ。

その「国境」で見えるものは、これまで「英会話」や「語学」という形でパッケージ化され消費の対象となった「英語」ではない。生身の自分に対して「おまえは何者だ」と突きつけてくることばである。


これから先、好むと好まざるとにかかわらず、これから英語圏に巻き込まれる日本人は増えてくるであろう。好むと好まざるとにかかわらず、である。日本人全員が巻き込まれないとしても、日本社会に質的な変化をもたらすだけの量は増えるだろう。そのとき、多くの人が、この小説の主人公のように傷つき、心のよりどころを求めることになるかもしれない。

小説の中の「私」が若干偏狭とも見える考えに向かってしまうのは、彼女がマイノリティであり、孤独な闘いを強いられてきたからである。自分を守るにはそれしかなかったのだ。しかしウェブが今後日本に新たな「開国」を迫るのだとすれば、彼女の心の叫びに耳を傾けることも必要となろう。

日本近代文学に自分を重ね合わせる「私」。その私の体験はこれを読む「読者」に重なっていく。そして、読者が現代の日本を振り返るとき、物語は大きな円環となる。かくしてこの異色の小説は、日本が背負わされた宿命を表現するのである*1

「外国に縁がありますね」―「私」が聞いた街の占い師の呪いの言葉は、実はもっと多くの人にかけられていることに気づかされるのである。

*1:それゆえ、この小説の成功は、どれだけ読者が共感ベースで読んでくれるかにかかっている。