盤上の自由のために:シリコンバレーで将棋本を読む(2)

シリコンバレーから将棋を観る』では、現代将棋のプロたちの世界とシリコンバレーとを重ね合わせた記述が多く見られる。これには、競争の中を生き抜いてきた人々に共通する雰囲気を将棋のトッププロたちが持っているという点もあるかもしれない。が、それよりも興味深いのは、現代将棋におけるイノベーションのあり方、進化の仕方にシリコンバレー的なものを見出している部分である。

本書では、「知のオープン化」の中で棋士たちが多様な手を互いに探索・共有している様が、現代将棋の今として描かれているが、この点だけを見れば、シリコンバレー的と言わずともたとえば日本のWebでも起こっていることではないか、と思うかもしれない。

確かに、オープンな情報共有による進化の速さは2ちゃんねるニコニコ動画でもよくみられる。コンテンツが誰に帰属するか関係なくさまざまなパターンの探索がすごい速さで行われるところは、むしろ将棋以上であろう。また、広い意味でのイノベーションだって、たとえばニコニコ動画という場自体がイノベーションといえるし、タグや字幕の新しい使い方それぞれもまたイノベーションであろう。

現代将棋におけるイノベーションが、日本のWebでの典型的な例と違うところは、将棋という伝統的で確立した領域において、権威と戦い、破壊的創造を果たした点であろう。そのことが第一章に描かれている。


近代将棋では、将棋自体の明確なルール以外に、伝統やある種の美学が重視された。過去の偉い人が築いてきた伝統に反するなとか、上の人に対して邪道な手を指すとは品格がないとかいった「イノベーションを封じる村社会的言説」があり、これが将棋の幅を狭めてきた。このように「将棋界に存在していた、日本の村社会にも共通する、独特の年功を重んずる伝統や暗黙のルールが盤上の自由を妨げていた」ことを羽生さんは問題視していた。そして彼は名人戦初挑戦の時に「普通の定跡形は指さない」と宣言し、「盤上の自由」を得るための戦いに挑んだ。

そして今では、従来は邪道と言われて省みられなかった手が自由に指されるようになり、現代将棋は序盤から気の抜けない緊張感をもつこととなったのである。

トップに上り詰めたあとも羽生さんは若い棋士からも積極的に学ぼうとしている。梅田さんが「大人の流儀」とよぶ、若い人を受け止め、新たに戦いを挑む人たちを歓迎する大人の態度が、イノベーションを生み出せるような自由な環境を作ることに成功している。


シリコンバレーでも、この「盤上の自由」のための破壊的創造が象徴的である。

グーグルは自らのミッションを遂行するために、たとえば出版業界(本)、通信業界(携帯)と戦っている。ビットとして提供しうるあらゆるものをスケーラブルに提供し、広告モデルの下に市場を破壊していく。もちろんグーグルだって私利私欲でやっているわけだけれど、シリコンバレーの人々は、基本的にそういうチャレンジを支持する。革新的と喝采を受けたiPhoneであっても、ひとたびイノベーションを阻害するような不自由を利用者に押し付けようとすると、たとえそれがビジネス的に理にかなっていても批判される。「盤上の自由」を保つためには絶え間ないチャレンジが必要なのである。グーグルだって絶えずチャレンジにさらされている。

もちろん、日本のWebで見るイノベーションや進化のスタイルも大事である。将棋でたとえれば、それは将棋の駒を使って別の遊びをよそで始めるタイプのイノベーションである。権威に縛られた盤上を離れ、仲間内で将棋倒しとか始めてしまう。「才能の無駄遣い」とかいわれながらものすごい絶妙な将棋倒しが作られたりする。既得権に束縛されない空間で、新しい遊びは爆発的な進化をとげ、もともとの将棋より断然面白くなってくる。それによって既得権や権威が戦わずして相対化される。ある意味高度に洗練された戦い方かもしれない。

ただ、それがうまくいくかは時と場合による。微妙なところで落とし穴にはまりかねない。相対化によって状況をひっくり返せればよいけれど、下手をすると正面からの戦いから逃げたことで事態を悪化させ、既得権者から搾取された状態を存続させるだけになる。日本の政治やIT産業などに閉塞感をもちながらも、現状の中に慰みを見出すしかない状況に有権者や技術者が甘んじているとしたら、そんな落とし穴にはまっているのかもしれない。

「盤上の自由」のためには盤上でリスクをとって戦わなければいけないときもある。羽生さんがそうしたように。

日本の伝統的世界のひとつである将棋にだって破壊的創造がおき、より自由な世界が生まれることがありうる。梅田さんが現代将棋に見出したシリコンバレー的なものは、今後の日本を考えるにあたって勇気を与える。

シリコンバレーで将棋本を読む(1)

将棋を指さない人でも楽しめる将棋本、ということで、まったく指さないのに『シリコンバレーから将棋を観る』を読んだ。「サバティカル」中に生まれたこの本は、梅田さんのこれまでの著書のようなひとつのテーマをめぐって論考をめぐらせるような本ではなく、次のようなさまざまな側面を持っている。

  • 観賞の対象としての将棋
  • ウェブ実況の文芸的可能性
  • イノベーションと将棋
  • 探求者・研究者としての羽生さん

今回はこの中で、まずは最初の2点について感じたことを書いてみたい。

ひとつの本の中にこのようなさまざまな側面があると発散しそうなものであるが、それらを貫くひとつの軸となっているのが、将棋好きな無邪気なおっさんであるところの梅田さん自身である。この本を総体的に語ろうとすると梅田望夫論になってしまう。その点に関しても少しだけ触れたいと思う。

観賞の対象としての将棋

自分はこれまで将棋に関しては基本的なルールを知っているだけで、探索問題のひとつとしての計算科学的な興味があるという程度である。将棋に興味がないというよりは、一歩踏み出すと大変奥の深い世界だと思って敬遠していたというのが実情である。そんな素人でありながらも、将棋鑑賞の楽しさの一端を感じることはできた。*1

将棋を指す人には当然のことかもしれないし、まったく的外れかもしれないけれど、素人理解で面白いなあと思ったのは将棋の持つある種の「文芸性」である。おそらく、将棋というゲームの複雑さの度合いが絶妙で、そこにある種の言語的構造が生まれるのだと思う。*2

将棋の探索空間は膨大である。人間が指す以上、その空間を人間がどう認識・理解するかという点が重要になる。その理解を蓄積・共有していく過程で、将棋という空間に一種の構造が生まれる。それは、駒の配置や移動のパターンからなる局所的なフレーズレベルから、いまこの局はどこに向かっているのかといった大局的なレベルまであるだろう。文学が単なる文字の列以上のものであり、音楽が単なる音の列以上のものであるのと同様に、その構造が、鑑賞するに足る面白さを将棋にもたらしている。

構造的な理解を背景に、人間は現在の局面の中に過去の将棋の局面を見出し、比較検討することができる。とすればそこには「引用」があり、引用に基づく批評性も生まれる。

第二章の観戦記ではそれがスリリングに描かれていると思う。

佐藤棋聖が山崎六段を3年前に制した時と同じ局面が、おそらく羽生さんのリードによって、再現される。お互いどう指そうが自由なはずなのに、二人の手によってまったく同じ流れが再現される。その「引用」が続いていく緊張感。そして、ある地点から羽生さんの一手によりついに引用を離れ、未知のコースをたどる。「山崎君の1五歩が悪手でしたからね。」と羽生さんは後に振り返る。その一手にはある種の批評性がある。

しかし、構造化・言語化にも弊害がある。それが共有され、蓄積されていけば、ともすると形骸化を招き、正統派とか邪道とか、お約束に満ちた世界に陥る可能性がある。羽生さんたちの「現代将棋」における挑戦は、そのような権威的な世界に破壊的創造を仕掛ける試みであった。現代将棋における羽生さんたちの仕事は、現代ジャズにおけるマイルス・デイヴィスのようなものなのだろう。マイルスたちの革新によって、ジャズはそれまでのコード進行に縛られた即興演奏から離れ、自由度が増したことによって、新たな緊張感が生まれたのである。

マイルス・デイヴィスの曲を楽しむのにジャズの理論を知っている必要はないし、自分で演奏できる必要もない。それと同様に、将棋も、よりカジュアルに楽しんでもらいたい。それが「観る将棋」という梅田さんの考えにつながる。

とはいえ、まったくの素人には将棋はとっつきにくい。文学はそれを楽しむベースが日常の経験から得られる。音楽も日常生活で受動的に接するものがベースになる。しかし、将棋盤の上で行われているそれは日常接するものとはまったく別の「言語」で語られている。指さない素人が観て楽しむには、これを人間の言葉で補う必要がある。そこで、梅田さんは「将棋を語る豊潤な言葉」の必要性を説く。そしてウェブによる将棋観戦記の可能性がそこから広がっていく。

ウェブ実況の文芸的可能性

これまで梅田さんは、(主に文系のための)ウェブによる知の拡張に興味を持ち、自らも「人体実験」と称して実践を行ってきた。その第1弾は、膨大な数になる読者の反応をウェブ上で集約するというものであった。そして、その「人体実験」第2弾がウェブを駆使した将棋観戦記となった。

「指さない将棋ファン」に観て楽しんでもらうためには、盤上の局面そのものの解説だけではなく、それをさまざまなコンテクストと結びつけ、「豊潤な言葉」で語る必要がある。それをウェブが可能にした。膨大な過去の資料を蓄積して、それらを参照しつなぎ合わせていくことが、観戦をしながらでもその場で可能となったのである。

とはいっても、今そこで行われている事象と膨大な資料をリアルタイムに結びつけて物語をつむいでいくのには、ウェブのリテラシーだけでなく、かなりの文才が必要である。そこに文芸の一形式としての広がりが出てくる。

特に、リアルタイム性は観戦記の大きな要素である。対局にどのようなコンテクストを与えるか、そこには観戦記著者の創作性があるが、対局後に振り返って書く様なオフライン観戦記と違って、その創作性は著者の完全なコントロール下にはない。著者が思う方向に書こうとしても、その端から物事が勝手に進んでいく。たとえば、先日行われた棋聖戦第五局観戦記ではコンピュータの将棋と人間の指す将棋との比較がテーマの中心となった。でも局面しだいではそんなテーマも吹っ飛んで、全然別のテーマに発展していったかもしれない。

そもそも将棋自体にも、同じ性質がある。一方の棋士がどう指そうかと構想を持っていても、相手がどう指すかによってやろうとしていたことが途中でできなくなってしまう。羽生さんはそれを「他力思考」と呼んでいる。リアルタイム観戦記も、その「他力思考」で一手一手を指していくダイナミックな作品となる。

今後このリアルタイム観戦記に「人体実験第1弾」で行ったような読者の反応の集約がさらに組み合わさると、そこに新しい将棋観戦の形ができてくるのかもしれない。


さて、リアルタイムの実況という意味では、twitterで講演や会議の実況をする(tsudaる)動きが最近注目されている。講演そのものを映像や音声で流すよりも、twitterのフォーマットに短くまとめられた一文一文が、返って生々しさを与えている。これに対してウェブ将棋観戦記の方では実況にコンテクストを与えるために大変饒舌である。

フォーマットによってウェブ実況は俳句のようにも、小説のようにもなる。このようなウェブ実況の同時代的な発展をみていると、そこにはジャーナリズム的可能性だけでなく文芸的可能性もありそうで、これから面白くなってくるのではないかと期待される。


自伝としての将棋本

この本の帯には梅田さんの笑顔とともに「本当に書きたかったのはこの本」と書かれているが、それだけ見ると、「じゃあウェブ進化論は、趣味の将棋本が書きたいための印税稼ぎか」とか「日本のウェブはもう残念だから見限ったのか」とか思う人もいるかもしれない。内容を読めば、これまでと一貫した梅田さんの志向性の「結果」としてこの本が生まれたということがわかる。
梅田さんの知への向き合い方、イノベーションが行われる場への関心と、その中の人に対する触媒的な働きかけ、(特に文系的な)知の増幅ツールとしてのウェブの可能性を追求し、炭鉱のカナリアとして自ら「人体実験」をする探究心、これまでの作品や言動に一貫して表れるテーマが、前から好きだった将棋でひとつにつながったのである。それが梅田さんにとってのブレークスルーであり、「書きたかった」というのは出来上がった本を振り返ってこそ言えることであろう。


プロとしての将棋の能力とプロとしての文才を兼ね備えている人は確率的に非常に少ない。梅田さんが若いころに耽溺した金子金五郎のような人が現れるのはまれであろう。「指さない将棋ファン」が増えていけば、その中から「平成の金子金五郎」のような役割の人が現れるかもしれない。将棋がより多くの人に広がっていくには、それゆえ、プロのように将棋を指せなくても臆せずに将棋を語ることが大事である。

梅田さんの「指さない将棋ファン宣言」をきくと、コンサルタントとしての梅田さんの生き方に重ね合わせてみてしまう。過去のブログの記事を見るに、これまでコンサルティング業を続けてきて経営者から「虚業のくせに我々の経営の何がわかる」とかいう無理解にも接しただろうと想像される。そんな中で戦ってきたからこそ、「将棋も指さず、ろくに将棋のこともわからない奴が何を…」という(内なる)声に自粛する「指さない隠れファン」に、「立派なファンじゃないか」と勇気付ける肯定的な声に力を感じる。

ウェブの普及によって、たとえば欧米の情報を単に輸入するだけというような単なる事情通や物知りといった人の価値は下がったかもしれないが、情報の肥大化によって、批評や編集、あるいは表現の価値は逆に上がる。圧倒的な情報量の中からどのように価値を見出し、それをどのように表現していくか。将棋にとどまらない、梅田さん本来の問題意識があってこそこの将棋本が生まれたのだと思う。

単なる「将棋を観る」ではなく、「シリコンバレーから将棋を観る」というタイトルのこの本は、そんな梅田さんを「観戦」できる「自伝」本でもある。

*1:ただし、将棋をまったく知らないと、第一章からの飛ばしっぷりにいきなりドン引きするかもしれない。

*2:多分、駒の役割があまり均一すぎても、逆にこれ以上各駒が意味を持ちすぎても、将棋はまったく違ったものになったかもしれない。

一般化J空間:一般解からのアプローチ

先のエントリで「拡張」という言葉に違和感を持った方もおられるようです。自分自身もうまい言葉がみつからず、なんとなく違和感を持っていたので、フィードバック感謝します。ここで自分の頭にあったのは、領土や圏域を拡大するとかいう物理的な拡張ではなく、日本というものを概念的に拡張するというものでした。じつは、この「拡張する」という発想の元になっている考えを書こうと思ったけれど、抽象的だし、かえってわからなくなるので、先のエントリではばっさりカットしたのでした。そこらへんが全体としての言い回しの不自然さにつながっているのだと思います。
もっと考えがこなれてから、ちゃんとした日本語でわかりやすく書きたいと思います。


[追記]当初、カットした「わかりにくい」部分を参考のために載せてみましたが、読み返してみたところ、あまりこなれていない考えをそのままの形で晒すのはよくないかとおもい、やっぱり削除しました。読者の方にとってこれでは単なるノイズですよね…。反省しています。日本語も亡んでいるし…。また改めて書き直したいと思います。失礼いたしました。
[追記2]一応削除した部分の概略だけ晒しておきます…。
問題の領域を整数から有理数へ、実数から複素数へ、n次元空間からn+m次元空間へと拡張し、問題の構造を変えてみると、問題の見通しがよくなり、拡張された問題の解がもともとの問題の解へのよいアプローチになることは一般的にありうると思う(たとえば整数計画問題の線形計画問題を用いた近似解法)。ここで、日本の問題を考えるに、今のような日本列島=日本国=日本人=日本文化=…という特殊な条件の中だけで問題を解こうとして四苦八苦しているように見える。そこで、いったんこの制約を緩めて解いてみるとどうだろうか。よりよい状態を模索するにあたっては、革命でも起こさない限り、状態を急激に変更することはできないので、漸進的によりよい状態を探さなければならない。このようなやり方では、局所最適解に陥りやすい。今の日本の状態がそれに当たるようにみえる。そのような行き詰った状態では、問題空間の拡張が役に立つのではないかと考えられる。小さな次元の空間の中では局所最適であっても、より高次元の空間では(もっと動ける自由度があるから)そうでないということは十分ありうる。つまり、拡張された空間が、よりよい解へのパイパスを与える。多様なオルタナティブを可能にすることで、今の袋小路から脱することができるのではないか。

日本を拡張する

渡辺千賀さんの「日本はもう立ち直れないと思う」という発言がずいぶん反響を呼んだわけだが、*1これは日本という現行システムの限界を指摘しているのであり、中の人までが駄目だとまではいっていないと思う。渡辺千賀さんの趣旨そのものではないかもしれないが、次の二点に言い換えた上で同意したい:

  • 今のシステムで「かつてのような形での」繁栄は望めない(景気回復→海外に日本製品が売れまくり→みんなの所得が右肩上がり*2)。
  • 今のシステムを変えるには、もっと多くの人が(一時的にでも)外に出るほうがよい。

日本人が個人としてもっと海外に展開するようになり、今の日本を「拡張」することによって、かつてとは違った形での「日本」の繁栄はありうるのではないか。それが自分の思いである。これはessaさんのいう「広がっている日本」と基本的には同じことだと思う。

今日本が直面しているのは、景気の波というだけでなく、政治・産業・教育などにおけるさまざまな構造的問題である。その問題は複雑に絡み合い、一種の均衡状態に陥り、どこか一箇所を改善するという漸進的な改革は行き詰っているように見える。だからといって、システムをいったん破壊するような「革命」や、システムから単に逃れるような「亡命」が必要なほど今の生活が行き詰っているようには見えない。漠然とした閉塞間の中で、将来への希望を明確に形にできないまま時間が過ぎていく、そんな感じを受ける。

日本人の海外移住増加は、問題の構造を変えるための方法として、革命でも亡命でもない別の道を示唆しているのではないか。

日本を出て海外に移住するということは、必ずしも日本を見限って捨ててしまうことにはならない。国内外を含めた日本人がネットで緩やかにつながることによって、そこに拡張された形での「日本」ができるのではないか。一定数の日本人は国外でリアルを生きることで、世界と「地続き」の日本がそこに生まれるだろう。それは日本人がみな国内でリアルを生き、ネットを介してのみ世界とつながるのとは大きく違うと思う。

もちろん、日本人が外に出て行くことは今までもあったことである。だがその意味合いは時代によって違うと思う。

近年でいえば、日本の経済的発展に伴って日本企業が多くの駐在員を世界に送り出した。梅田さんの言うところの「時代の力」がその背景にある。しかし、今どんどん大企業の駐在の人は少なくなっている。これは、景気が良くなったらまた増える、というよりも、時代における一定の役割を終えたのだと思う。日本の大企業にとっては、海外で働く日本人の必要性が減ったということだろう*3

今後は大企業の力でではなく、個人の力で移住する人がもっと出てきて、日本を「拡張」してほしい。

これは、「みんな国を捨てて外に出るべき。残ったやつは負け組」とか「みんな国の中に残るべき。逃げるやつは非国民」とか、どっちの生き方が正しいとか言うものではない。現状ではいわゆる「子供のサッカー」のように、みんな日本国内に固まりすぎなので、そこを問題にしているのである。そこには次のような問題がある。

脆弱性

今の日本の状態は、大事なデータをひとつのハードウェアに保管しているような、そんな感じである。もし守りたいのがサーバよりもデータであるならば、データをもっと分散させたほうがよい。

日本人が国内に固まりすぎるということは、日本の国土を守るという地理的・物理的基盤と、その上の日本の文化や、「日本人がよいと思い守りたいと思うもの」が渾然と切り離されない状態にあるということになる。それが、一部の保守層に見られる排外的な考え方にもつながっているように思う。

もちろん、文化は自然環境や風土によって形作られる面もあり、完全に切り離せられるものではないだろう。だが、そこで形作られたものが本当によいと思えるのであれば、日本人が外に飛び出しても、その「よさ」は残っていくであろう。

アメリカ、ヨーロッパ、中国など、日本人がいろんなところにもう少し散らばって、異なる文化圏の人ともっと交流しながら、自らがよいと思うものを高めていく、そのような「保守」のあり方があってもいいと思う。

かつては、固まることに意義がある時代もあった。開国においては、西洋の学問・技術を取り入れ、帝国主義の世界で生き残るために国語や大学が構築された。戦後の経済成長期においては、終身雇用・大企業を中心にした系列構造などが、いい意味で社会主義的な効果をもたらし、工業化社会の中で日本の台頭に寄与したことだろう。

しかし、その国語、大学、終身雇用、日本的大企業、それぞれがウェブ時代の中で行き詰っている。それぞれが、硬いがゆえの脆弱性をはらんでいるように思う。

硬直性

硬いことの問題は脆弱性だけでない。政治や産業構造の硬直性は、生産性や、将来に対する希望に悪影響を与えている。

硬直した環境の中では、リスクを極端に回避するような行動が合理的になり、新たな行動がどんどん起こせなくなってくる。

  • 博士の就職問題(ハイリスクハイリターンの人材を企業が採って活かすことができるか)。
  • 技術者の地位・待遇の問題。
  • 日本特有のSIベンダー階層構造、IT導入が生産性向上につながらない日本的企業経営
  • (特に世代間における)既得権争い(「ロストジェネレーション」「希望は戦争」問題)。

これらは、ブログ界でも何度となく取り上げられる話題だが、根幹には流動性の少ないリスク忌避社会の問題があるだろう。

また、海部さんが「政治家のキャアリアパス」の問題を挙げている。普通の人が政治家になったり、落選したら元の生活にもどったりできるようにしないと、いい人材が政治の世界に集まらないというわけだ。これを実現するには、まず社会全体の人材の流動性が必要である。

ここで、日本人がもっと海外移住し、国外で働く、留学する、というのが身近な選択肢として感じられる程度にまでなれば、この状況も少しは変わってくるのではないか。日本国内にいる人も、その選択肢の存在によって、(それをあえて選択しなくても)今の立場を良くすることができるだろう。多様な道が具体的にあることがわかれば、戦う勇気も出るし、希望もわくと思う。また、構造改革のために制度設計をするにしても、具体的なイメージを共有できるのではないか。

これまで日本の構造改革アメリカなどの「外圧」によるところも多かったが、同じ日本人による「外圧」のほうが良いだろう。

まずはミクロなところから。

ただしこのように、日本の構造的な問題を指摘して可能性を模索したところで、そこで終わってしまっては何も変わらない。

渡辺千賀さんや海部美知さんがミクロにこだわるのは、「大層な御託はともかく、個人としてどうするか考えよう。そのミクロな行動が、やがては大きな流れになって社会に影響を与えるんじゃないか。」ということだと思う。

また、もちろん、移住のお勧めとして出てくるシリコンバレーアメリカの大学はあくまでもひとつの例である。ヨーロッパやアジアのほかの国でも良いだろう。カナダやニュージーランドでも良い。いろいろあったほうがよいだろう。

それでもシリコンバレーアメリカの大学を特にお勧めするのは(一般論を避けるという意味もあるが)、そこに世界から集まる人材の多様性ゆえと思う。それに比べれば、アメリカの政治社会が良いの悪いのという議論は、あまり重要ではないと感じられる。「日本」が多様性を確保するためには、この渦の中にもっと人が飛び込んでいくべきだと思うし、また日本人もこの中で十分やっていけると思う。

一方で、この話は大多数には関係のない話かもしれない。多くの人はそのまま日本で幸せに暮らし続けるだろうし、またそうであってほしいと願う。海外移住の勧めは、日本に生きるという生き方を否定するようなものではない。

渡辺千賀さんがどうお考えかなのかはわからないが、少なくとも自分の思いは、「こっちにきたほうが幸せな人が他にもっといるはず。そしてそれが日本人の総体的幸せにもつながるんじゃないか。」というものである。

これまで自分のサバイバルで精一杯の部分があったが、これからは自分のできる範囲で「拡張された日本」に何か貢献していけたらと思う。そして、単に国内か海外かというのではなく、志を持った人を少しでも応援していきたい。

そのためにも、日本語でものを書くことは続けていきたいと思う。

*1:ところで、もし「シリコンバレーのコンサル的発言」がお嫌いというなら、その希少価値をなくすためにも、やはりもっと多くの日本人が外に出て、情報発信をしてもらったほうがいいのではないだろうか。「シリコンバレー」とか「アメリカ」というキーワードに過剰反応することもなくなるのでは。

*2:そんな繁栄誰も期待していないだろ、と多くの人が思いつつも、それにチューニングされた旧来型システムのままとりあえず走っている。

*3:まあ日本的大企業自体がその役割を終えつつあるのかもしれないが…。

小説『日本語が亡びるとき』を読む

水村美苗の新作小説『日本語が亡びるとき』は、作者の二作目の小説『私小説 from left to right』を参照する形でのメタ私小説となっている。アメリカで生活しながらも英語に馴染めず、日本語にこだわり続ける主人公が、日本にもどって作家となり、その後どのような考えに至ったかを、主人公の立場から評論のような形式で語っている。

主人公の「私」が最終的にどういう考えにいたったか、その衝撃のラストが問題作となっている。この結論について異論反論を戦わせる人もいよう。そしてそれを見た人がもうこの小説を読んだつもりになってしまうかもしれない。しかし、この小説の醍醐味はなんといっても、その結論に至るまでの過程である。その物語は、特に英語圏で奮闘する人々の心を打つ。それはなぜだろうか。

「私」は12歳のとき、父の仕事の関係で、好むと好まざるとにかかわらず英語の世界に放り込まれた。好むと好まざるとにかかわらず、である。父親は自分の仕事の都合で来たからよい。自分はビジネスマンとしてのアイデンティティを持ち、日本を、あるいは会社を代表しているという自負ももてたであろう。だが家族はどうか。「私」は、日本で何不自由なく暮らしていたに違いない。それが本人にとって何の積極的理由も無いのに突然いままでの平和を奪われ、無能感におとしいれられる。英語という国語ができない「私」は「お馬鹿さんのクラス」に編入されてしまった。なんという屈辱感か。子供たちが体験する英語は、父親が体験するビジネス英語よりももっと直截的に、12歳の少女の心に容赦なく乗り込んでくるのだ。それは、「おまえは何者だ」と突きつけてくる英語である。

主人公の「私」が日本近代文学を心のよりどころにするのも無理は無い。それは開国、そして文明開化の過程で突然英語の(あるいは西洋の)洗礼を受けた日本人たちが「日本人」としてのアイデンティティを確立するために闘った時代の文学である。「私」の日本に対する思いの中で、日本近代文学の巨匠たちは林に聳え立つ大木としてイメージされている。そして自分はそのふもとで文章を書いていたい、というのだ。日本近代文学へのこの思いには、父性の希求さえ感じられる。

望郷の思いの中で理想化された「日本」と「日本文学」。しかしその幻想は、ついに帰国を果たしたときに打ち砕かれる。日本でものを書き始めた「私」の目には現代の日本文学が「幼稚な光景」とうつる。

そして「私」の運命は、渋谷の街で出会った占い師の言葉によって縛り付けられることになる。―「外国に縁がありますね」

彼女はこの言葉で呪いにかけられたかのように、海外とかかわっていくようになる。自分から積極的に外国に行こうとは思っていないのに、英語のできる日本作家として海外の大学に招かれる。そのたびに占い師の言葉を思い出し、招待を受ける以外に道は無いと観念するのである。好むと好まざるとにかかわらず背負わされたもの。その宿命を受け入れながらも、それを最後までやり通すことで何かを得ていかなければならない。この小説は、村上春樹などの作品にも通ずるような文学的なテーマを、まったく別の筆致で描いた物語である。


これまで、この物語は外交官・駐在員・学者とその家族といった一部の人に限られていたかもしれない。それ以外の人は「国語」によって守られてきたともいえる。小説の中でも、「私」は、バイリンガルで日本を守る少数のエリート戦士の活躍を希求している。

しかし、天然資源の無い日本がこのウェブ時代に生き延びるには、それは一部の人々の物語では済まされなくなるだろう。ウェブとは学問の世界にあった知のツールのコモディティ化である。学者や作家の物語は、これからさまざまな人の物語と重なっていくであろう。ウェブ時代では、その内容がビットに変換できて、何らかのスケールメリットがあるような仕事は、多かれ少なかれ英語圏の影響を受ける。学者や小説家はその一例に過ぎないのだ。さらに、自分が直接そのような仕事にかかわっていなくても、家族や友人が英語圏にかかわれば、それに影響を受ける。Twitterのようなツールで友人が英語でつぶやき始めるのを目の当たりにする。英語圏が自分のすぐそこまで来ていることを実感するようになるであろう。ある意味、日本人がついに地続きの「国境」を目にすることになるのだ。

その「国境」で見えるものは、これまで「英会話」や「語学」という形でパッケージ化され消費の対象となった「英語」ではない。生身の自分に対して「おまえは何者だ」と突きつけてくることばである。


これから先、好むと好まざるとにかかわらず、これから英語圏に巻き込まれる日本人は増えてくるであろう。好むと好まざるとにかかわらず、である。日本人全員が巻き込まれないとしても、日本社会に質的な変化をもたらすだけの量は増えるだろう。そのとき、多くの人が、この小説の主人公のように傷つき、心のよりどころを求めることになるかもしれない。

小説の中の「私」が若干偏狭とも見える考えに向かってしまうのは、彼女がマイノリティであり、孤独な闘いを強いられてきたからである。自分を守るにはそれしかなかったのだ。しかしウェブが今後日本に新たな「開国」を迫るのだとすれば、彼女の心の叫びに耳を傾けることも必要となろう。

日本近代文学に自分を重ね合わせる「私」。その私の体験はこれを読む「読者」に重なっていく。そして、読者が現代の日本を振り返るとき、物語は大きな円環となる。かくしてこの異色の小説は、日本が背負わされた宿命を表現するのである*1

「外国に縁がありますね」―「私」が聞いた街の占い師の呪いの言葉は、実はもっと多くの人にかけられていることに気づかされるのである。

*1:それゆえ、この小説の成功は、どれだけ読者が共感ベースで読んでくれるかにかかっている。

『日本語が亡びるとき』を読む

梅田さんの釣りにかかって、水村美苗の新作エッセイ『日本語が亡びるとき』を日本から取り寄せて読んだ。すでに各所で指摘されているとおり、論考にはかなり飛躍や不整合があって、これが論文ならrejectだと思う。だが、エッセイとしては面白く、読み応えがある。国語としての日本語の成り立ちとか、考えたことも無かった人には三章から五章のくだりは大変刺激的であろう。そんなこと前からよく知ってるよ、それにちょっと偏ってんじゃないの、という人も一章・二章を中心に「小説」として楽しめる。その中間の多くの人にとっては、問題意識をより多くの人と共有するのに役立つのではないか。

三章では、現在の「国語」である日本語がいかに成り立っているか、日本近代文学が「国民文学」としていかに日本という近代国家の成り立ちに寄与しているか、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』をベースにしつつ語っている。

古来人類は文字を持たず、ローカルに自分たちが話す「話し言葉」をつかっていた。文字が発明されそれが広まる過程で、「書き言葉」は自分たちの話す言葉ではない「外の言葉」として文明とともに導入された。このため、読み書きをするには自分たちの話す言葉ではなく外の言葉を使う必要があった。この外から伝来した書き言葉のことを「普遍語」、自分たちの話す言葉を「現地語」と呼び、この両方をつかう人を「二重言語者」と本書では呼んでいる。その後、普遍語としてやってきた文明の抽象的な概念が「翻訳」されることで、現地語でも読み書きができるようになり、限られた二重言語者以外の多くの人が自分たちの言葉で世界を語れるようになった。そのおかげで言語を軸とした「国民国家」というナショナリズムが作られることとなった。この自分たちの、国民の言葉を「国語」という。

本書の主題は、英語とどう向き合い、日本語という国語をどう守り、磨いていくかを語ることなので、西洋文明がいかに普遍語として日本に到来し、現在の近代的な国語がどう成立したかに興味の中心がある。第三章における議論は、日本語の(あるいはほかのいかなる言語の)歴史を包括的に取り扱ったものではないことに注意されたい。近代日本にとっての普遍語として英語、そしてその前の世代の普遍語であるラテン語に話は集中している。

読み書きのメディアが発達していない時代、書き言葉は希少であった。ヨーロッパでは学問のための書き言葉としてラテン語が使われていた。印刷技術が発達し、これが現地語に翻訳され、現地語でも学問ができるようになった。それがヨーロッパにおける「国語」の誕生につながる。

近代の「日本語」は、西洋の文明を自分たちの言葉に翻訳することでなりたち、これが西洋的国民国家としての日本の形成に寄与した。この近代的「国語」としての日本語に対する普遍語にあたるものが英語であり、そして今「英語の世紀」の中で「日本語」が危機にあるとしている。

しかし、近代日本語の成り立ちにおける普遍語としての「英語」と、今が「英語の世紀」というときの普遍語としての「英語」はその意味合いがちがうと思う。本書ではそれを区別せず、それが議論に混乱を招いているように感じる。ここではそれを次のように分けて考えたい。

帝国主義的普遍語としての英語

まずは前者を仮に「帝国主義的普遍語」と呼んでみたい。それはこれが普遍語といっても、実際にはヨーロッパの国語であり、植民地化の対象である非西洋に支配者の立場としてやってきたものだからである。

このような西洋の侵略に対抗する手段として、西洋的概念を現地語に翻訳していくことで、国家の基盤となる「国語」をつくっていく。本書に書かれているとおり、これに成功した数少ない例が日本語であり、日本という国民国家である。ヨーロッパにおける国語と、日本における国語はだいぶ生い立ちが違うわけである。

この時代の普遍語は、「普遍」といっても、その実は覇権国家の国語である。植民地時代が終わり、冷戦時代が終わっても、これまではアメリカが覇権国家として、言語と通貨とイデオロギーを支配してきた。アメリカの国力を背景に英語が普遍語のような顔をして世界を席巻している、という見方もできるだろう。

筆者は、言語間の翻訳の関係が「非対称」であるといい、英語を母語とする米英の人々に複雑な思いを抱き、ベネディクト・アンダーソンの英語への向き合い方にも不満を述べる。筆者が感じるある種の不平等感はそのような世界観から来ている。

世界がこのままであれば、「英語の世紀」という話も、「100年前からある議論だよね」「アメリカの繁栄は長くは続かないよ」「自然科学では昔から英語ですよ」という批判が本書を読むまでもなく成り立ったであろう。

コモディティ化した普遍語としての英語

しかし、筆者の言うところの「英語の世紀」というのは「アメリカの世紀」ではない。本書ではそうはっきり書いていないが、第六章でインターネットの発達を英語の世紀の背景に上げており、ある程度の認識がそこに感じられる。ここがもう少し描ききれていれば、と思う。以下、筆者の議論から発展して、自分の考えを進めてみたい。

経済のグローバル化とウェブの発達で、「非西洋」の国々や、共産圏であった東欧諸国が台頭している。いや、「国」が台頭しているというよりは、その人々が「英語圏」に参入している、というほうが正確かもしれない。それは国民国家の覇権争いでも、植民地支配からのたたかいなどでもなく、個人個人のビジネスチャンスであったり、貧困からの脱出であったりする。いまや英語圏は地理にとらわれず広がり、ネイティブの占める割合はどんどん減っていく。

「英語の世紀」の向かう先では、英語はそれを母語としない人々に徹底的に壊されることで普遍化する*1。例えていえば、マイクロソフトが自社のOSをオープンソースとしてコミュニティに寄贈してしまうようなものである。それは、単にマイクロソフトのOSがデファクトスタンダードである、というのとは違ったインパクトを持つだろう。

それは、特定の覇権国家が押し付ける国語でもなければ、ラテン語のように少数のエリートのための権威的言語でもない。印刷技術、ウェブ技術を経て知がコモディティ化した上での普遍言語である英語は「コモディティ言語」である。「聖書はラテン語です」「論文誌は英語です」といったレベルではない。これに対抗するというのは、特定の支配者に対抗するというのではなく、世界中の誰でもないその他大勢に対抗するということである。それがどんなものであるかは、ウェブ時代を生きるものであれば肌で感じているのではないだろうか。

ここまで考えてみると、これ以降の筆者の主張には少し疑問を感じる。「英語の世紀」の普遍語に日本近代文学で立ち向かおうというのは、航空機の時代に戦艦大和で戦おうというようなものではないか。戦艦大和がどんなにすばらしいかということと、それで勝てるかということは別問題である。日本近代文学の上に今の日本語が成り立っているのは、筆者が言うようにすばらしいことであろう。でもその成功体験から学ぶには、その時代の特殊性を考慮する必要があるだろう。国語教育として日本近代文学をもっと読むべきというのはわかるが、それはもう少し批評的になされるべきはないか。

日本語は「亡ぶ」か

続く議論で、<叡智を求める人>がどんどん英語にアクセスするようになり、英語でものを書くようになっていき、それは究極的には「文学の言葉」にも影響を与えると筆者は指摘する。

自然科学はすでに英語に一極化されているが、重要なのは、そのような動きは「ここまで」と線を引けるようなものではないことにある。英語への一極化は、すでに自然科学を越え、社会科学、人文科学へと、今は緩慢に、しかし確実に<学問>の中で広がっている。そして、それが、いつしか<学問>の外の領域へと広がらない理由はどこにも無いのである。(p.251)

<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する。そして、いうまでもなく、<テキスト>の最たるものは文学である。(p.253)

自分も<叡智を求める人>のはしくれとして、「学問の言葉」としては日本語を放棄している*2。だが日本語で書くことをやめたわけではない。確かに英語で書いている論文に比べればここに書いていることは駄文に過ぎないが、それでも日本というコンテクストで日本語で書くべきことがあると思っている。それに、「文学の言葉」として日本語を読むのをやめたわけではない。叡智を求めようが学問をしようが、情感を持った人間である。日本語ならではの表現の仕方を愛で、まさに筆者の言うところの「翻訳されないもの」も楽しんでいる。

筆者からすれば、そんなものは「現地語」に過ぎない、というかもしれない。筆者は、日本の現代文学は文学として「幼稚」なものだという。しかし、この部分の議論については、かなり勇み足に感じる。文章が大量に出版され、結果的に玉石混交になったということと、時代におけるそれぞれの文学のあり方ということがごっちゃになって論じられているように思う。仲俣さんが、おまえどこみてんだよ、と憤る気持ちもわかる。この本を「文学論」として読むならば、仲俣さんの批判には共感する。

筆者の言う「日本語が亡ぶ」というのは、帝国主義的普遍語に対抗する近代的「国語」がその役割を終えるということだと思う。その結果、日本語が「現地語」に「堕ちる」としても、それは帝国主義支配下の「現地語」というイメージとは違う、もっと豊かなものに思える。近代の構図から解放された、もっと自由な<テキスト>を楽しんだらいいと思うのだが。それを「現地語」というのなら、現地語上等である。

もちろん、放っておいて日本語がこのまま豊かな状態に保っていかれるとはいえない。長い目で見ると、普遍語だけで何でも事足りる、という時代が来るかもしれない。日本語を大切にし、それを磨き上げる人たちがいなければ筆者が言うように日本語は廃れていき、「この時代になんで日本語なんか使う必要があるの?」という疑問に直面することになろう。だが、磨き上げる方向性は近代のそれとはおのずと違ってくるはずだ。

「国語」大成功の副作用

日本語という国語が誕生し、自分たちのことばで世界を語ることができるようになった。それはすばらしいことである。だがその反面、「国語」の大成功が、変化していく世界を日本人から見えなくさせている部分がある。

必要なのは世界性の認識であって、近代の国語は、近代時点での世界性認識の結果にすぎない。現代的世界性の認識のもとで、「国語」は変容していくのは自然なことである。今はその過渡期であり、多くの日本人はいま世界性を見失っているかもしれない。筆者の憂国の思いもわかる。でもそれを安易に復古的な考えに結びつければ、世界性の認識を見誤ることもあるだろう。

日本語が「滅びる」でなく、「亡びる」を本書で用いているのは、日本語が消滅してしまうのではなく、その輝きを失ってしまうということだと思うが、この「亡びる」という言葉の導入として、『三四郎』の中の広田先生の言葉が参照されている。三四郎の「日本はだんだん発展する」という意見に、広田先生は「亡びるね」とこたえた。筆者はそこに、『近代国家として日本がまだいかに脆弱であるかを知る漱石の目(p156)』をみる。この広田先生は、誰よりもよく西洋のことを知っているのに、ほかの学者たちと違って何も書こうとしない。彼はそれゆえ「偉大なる暗闇」と評される。その背景を筆者は『西洋語を誰よりも読んでいるからこそ、日本語で書いてそれを公にすることの「無意味」を、<世界性>をもって、知りすぎているのである。』と指摘する。まさに、英語の側から見れば、日本全体が「偉大なる暗闇」であっただろう。広田先生の「亡びるね」は、日本に働く内向きの力の限界を見据えていた上での言葉ではないか。広田先生の諦念を現代的な意味で考え直さなければならないように思う。

教育論について

第七章は、それまでの筆者の考察をもとにした英語教育、日本語教育への提言である。教育というのは誰でも身近なものだけに、各自が「俺理論」を展開したくなるものである。だが、著者の教育論について何らかの結論を導くにはもっと科学的な検証が必要なので何ともいえないし、対案となるような「俺理論」も持ち合わせていないので、ここでは感想を述べるにとどめる。

まず、英語については全員がバイリンガルなどと平等主義を目指さずに、一部の英語エリート戦士を養成せよと主張している。その理由として、官僚などのエリートの英語力の不足が、日本の国益を毀損していると指摘している。その指摘はそのとおりなのだと思う。政治の世界だけではなく企業でもそうだ。ただ、英語教育を変えれば解決するかは難しいところだ。官僚組織が内向きの力を持っている限り、どんな英語教育も出世のアイテムとして消費されるだけだろう。それは、大衆における「英会話教室」や「語学」の消費のされ方と同様、ドメスティックな活動になってしまう。

日本語をしっかり教える。これも大切なことだと思う。だけどそのために日本近代文学を教えればよい、というものではないのでは。過去の闘いの歴史としてコンテクストとともに批評的に教えるならともかく、近代文学を経典のように考えるのはどうかと思う。

筆者は教育における悪平等を憂い、ヒステリックな英語教育熱を憂う。それは結局、西洋から取り入れた自由と平等の概念も、普遍語としての英語も、日本ではすべてネタとして消費されてしまうということなんじゃないか。そんなある意味平和な空間ができてしまったのも、近代国語が成功しすぎた副作用なのでは…。ナショナリスティックな響きを持つ彼女の叫びは、やはり格好のネタとして消費されるかも…。そんな中での彼女の憂国のたたかいは、「水村さん、気持ちはわかるけど、そんなやり方では闘えないよ」といいたくなってしまう。

まとめ

自分はその結論には賛同できないが、それでも、批判を恐れずアクションを含めて提示したことは意義があると思う。自分などはこの「英語の世紀」にあたって、自分自身がどうするかは考えられても、日本がどうするべきかまでは提案できるまでに至っていない。反論したい部分もあったが、問題意識は共有できたと思う。

梅田さんはこの本を紹介するに当たって、賛否は別として「プラットフォーム」にならないか、と書いている。そのことばを借りれば、プラットフォームの上に乗っている「アプリケーション」に難があるからといって、全部を捨てるのはもったいない、そんな本である。結論だけを受け売りせず、批評的に読むことのできる人にお勧めしたい。

*1:水村さんの議論には英語ネイティブに対する複雑な思いが込められているが、アメリカこそ自分の「国語」を奪われつつある人々なのである。その悲しみにも目を向けてあげてほしいと思う。

*2:id:min2-fly さんがよい指摘をしている。論文誌の論文というのは、研究のプロセスの最終段階(企業ではまた違うが)であって、それまでに長いプロセスがあり、そこでのコミュニケーションで最先端の議論が取り交わされるというわけだ。その指摘に付け加えるならば、英語の世紀では、単に最終生成物の論文誌が英語というのではなく、それに至るまでのプロセスが英語ということかと思う。ウェブ時代に英語圏が広がっていく、というのは「論文誌はこれまでも英語だよ」というのと違ったレベルのことである。日本語での研究コミュニケーションを否定しているわけではないが、日本の仲間内だけで固まることの功罪は意識したほうがよい。

『ウェブ時代5つの定理』:第4定理の証明をめぐって

証明されなければ定理とはいえない…。理系の人間として、最初はそんな無粋なことを思いながら『ウェブ時代 5つの定理』(isbn:4163700005)を読み始めた。だが第1章(第1定理)を読み進めていくうちに、「定理」の比喩するところがなんとなくわかってきた。この本に集められた言葉は単に羅列されているのではなく、それぞれ梅田さんの実体験と結び付けられて語られている。これが引用された言葉に説得力を与え、まるで定理に対する証明を与えているかのようである。つまり、ここでいう定理は「実体験で裏づけされてきた言葉」ということだろう。

ここに集められた言葉は、梅田さん本人だけでなく、シリコンバレーに象徴されるような場で多くの人によって証明されてきた(体験されてきた)ことである。僕は起業には携わっていないけれど、ここに書かれている言葉たちに深く共感するし、起業というコンテクストを超えて普遍性のある言葉だと思う。


ところが、最初の3章(3定理)に比べて、(また第5とも比べても)、第4の「グーグリネス」は趣が異なる。


まずは「グーグリネス」という定理の名称。なんか「松下精神」みたいな感じだ。グーグル社員が自らを称するならともかく、一般的な定理の名前としてはちょっと違和感がある。

グーグリネスとしてまとめられた言葉たちは、力を手にしてしまったものが感じる倫理観と使命感をにじませており、実に生々しい。が、生々しいがゆえに、これがウェブ時代をゆく普遍的な言説なのか、グーグルという個別的な事象なのか、そこがまだ見えない。

グーグルの中の人が言っていることはわかったけど、外の人はどうなるのか。グーグリネス―グーグル的な何か―(あるいはGマシーンというべきだろうか)が行き着く先での社会。その中で組織は、企業は、労働はどうなるのか。

この第4章は、グーグルという現象を目の当たりにして、これはどういうことだろう、と観察している段階にみえる。さまざまな言葉を紡ぎだしてきた梅田さんをして「グーグリネス」としか言いようのない何か。グーグルという言葉を使わずに「それ」が表現できたときにはじめて、それは普遍性を持った「定理」として現れてくるのではなかろうか。

もちろん、これは梅田さんの書き方が足りないのではなく、まだ誰にもわからない現在進行形のものなのである。まだ誰も証明できていない定理、いや、「予想(conjecture)」なのだ(あるいはまだ明確な予想すら見いだされていない段階かもしれない)。

数式を書けば、数式が残る。途中でやめれば、書きかけの数式しか残らない。当たり前のことだ。
でも、教科書には、書きかけの数式なんて載っていない。建築現場から、すでに足場はかたづけられている。だから、数学といえばつい、整然と完成したイメージを持ってしまう。でも実は、数学が生み出されている最前線は、工事現場のようにごちゃごちゃしているのではないだろうか。
数学を見つけ出し、作り出してきたのはあくまで人間だ。欠けがあり、震えて揺れる心を抱えた人間だ。美しい構造に憧れ、永遠に思いを寄せ、無限を何とか捕まえたいと思う人間が、数学を現在まで育ててきた。
(『数学ガールフェルマーの最終定理isbn:4797345268 p.97)

結城浩さんの数学への(そして人間への)愛情に満ちた一節から言葉を借りれば、グーグルはまさに建築現場であり、第4章の言葉は書きかけの数式である。
いずれにせよ、まだ証明されていない定理があるということは大変刺激的なことである。第4章の言葉は、それが証明されていないが故の「生々しさ」をもって読者に迫ってくる。

そして、この定理を証明するのはグーグルの中の人とは限らない。むしろ外の人なんじゃないか。大定理の証明には無数の人の貢献が必要なのだ。そしてウェブ時代には、今を生きる人それぞれが、好むと好まざるとにかかわらず、この最前線の「工事現場」に立たされているのだと思う。僕も工事現場で足場に躓きながら、この証明に参加していきたい。それがこのブログであったり、本業の研究であったり、あるいは人とのつながりだったり、いろいろ数式を散らかしている。


梅田さんは本の執筆は現在「サバティカル」中だが、その中で第4定理の証明に出会うことがあるかもしれない。そのときはまた筆を執って証明の言語化をお願いしたい。

私は驚くべき証明を見つけたが、
それを書き記すには、この余白は狭すぎる。
― ピエール・ド・フェルマー
数学ガールフェルマーの最終定理』より

「それを書き記すには、ブログやウェブのコラムは狭すぎる」そんな証明に出会えますように。