梅田発言にまつわる雑感:入り口で絞るか、出口で絞るか

梅田さんの発言
直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japan
を読んで、「まあそうだよねえ」と思っていたら、
ネットでのすごい反響(嵐のような反応を読んで - My Life Between Silicon Valley and Japan)。

その反響のほうにある意味感銘を受けた。

以下、思ったことを書いてみる。

discouragingな日本の言説

いま自分は本業では米国の研究者(といっても中国人が多いが)と同じ立場で、日本(の本社)に対して
研究成果を売り込んでいる立場にある。
その立場(我々=米国、彼ら=日本)からみると、日本の人たちとの会議にはげんなりさせられることが多い。
まあ英語力の問題とか、会議をするのに意思決定がされないとか、他にも要因はあるが、
一番きついのは、はじめからdiscouragingなことばかりいうことだ。
まるでそれが仕事であるかのように(まあ仕事なんですが…)。

「わからないこと」に対してまず否定から入る。でもそれじゃあ研究なんてできないよ…。

会議が終わると、がっかりする同僚や部下を励ましてあげる必要がある。彼らも別に君の成果を否定している
つもりはないのだよ…と。

でも彼らの立場も言い方も理解はできる(日本人だしね…)。会社の業績を伸ばそうと真摯に努力しているのも、
こちらの話を真剣に聞いてくれているのもわかる。本当は彼らだって、技術者(あるいは元技術者)として未知の
ものにわくわくする心を持っていると思う。ただその心を開くのが不謹慎かのような雰囲気がある。

これが現在の会社のしかも研究開発に限ったことなのか、日本全体を覆っている雰囲気なのかは
わからないが、もし後者だとしたら、日本の若い人たちが梅田さんの一言に感動してしまう
のも無理はないのかもしれない。

ネットでの「粗探し」的言説について

ネットにおける他人に対しての否定的な言説(DISる?)との関連で「梅田発言」をうけとめた人も多かったようだ。

ネットで「粗探し」するのは、単純にいって非効率だと思う。

ネットには自分にとって必要でない情報のほうが必要なものよりはるかに多い。ネットの大量の情報に
対して否定しつくすには人生は短すぎる。きりがないのだ。その(あなたにとっての)ゴミにそれだけの
時間をかける価値があるだろうか?

自分がいいと思うものをピックアップする、あるいはこれがいいと思うものを自分でクリエイトする。
そういうことに時間を使ったほうが効率がよいと思うのだけれど…。

たとえば、CinemaScapeでは、コメンテータ同士で他人の映画評に投票ができるようになっている
(「ブクマ」に似た役割を果たしている)。ただし、投票にはマイナス評価はなく、評価のコメント
(ブクマコメントみたいなもの)もあえて導入していない。

つまり、「プラスか、スルーか」の選択肢しかない。

これは他人を批判してはいけないとか、何でも褒めろとか、そういう精神論ではなく、
コメント群総体としての価値を高めるためのシステムデザインと考えている。
まずはとにかく映画評を書けよ、と。まずは書かないことには何もはじまらない。
そこに最大限の自由と多様性を保ちつつ、読む側のほうでそれを整理選別すればよい。

それが他の場合にもうまくいくとは限らないけれど、限定された環境ではそれなりに長続きしてうまくいっている。

入り口で絞るか出口で絞るか

さて、上記のどちらの話も結局「入り口で絞るか、出口で絞るか」という選択の問題とみられる。

どちらがいいかとは一般論では決められない。

方向性が上から与えられて、予算枠が決まっていて、雇用に流動性がない。そういう環境
であれば入り口で絞るのが合理的な方法かもしれない(あ、今の日本のIT業界か?)。

ただ、後者の方法、入り口ではあまり絞らずに、とにかく沢山多様なものを出し合って、
それを集約する過程で選別する、そういったやり方のほうが、今は勢いを持っている。

大量の情報から有用なものを取り出したり、沢山の人から自分に会った人を見つけたり
そういった「出口で絞るための機能」(検索機能や集約機能)が飛躍的に向上しているからだ。

日本がそれに乗り切れていない部分があるのかもしれない。

蛇足:「痛い」もの批判について

世の中には、ゲーム脳とか水に語りかけてしまったりする人とか、似非科学がはやったりする。
また逆に科学者は科学者で、政治や思想の面で簡単に「痛い人」になってしまう。

指摘してもきりがないし、スルーすればいいのだろうが、それが社会性を帯びてしまった
場合(子供の教育とか、国策に影響するとか)、こういう「痛い」ものを批判するのも
一定の意義があると思う。

でもそういう批判には「笑い」が必要で、単なる中傷や無粋な批判にならないようにするには
ある程度センスが要求される思う。