『ウェブ人間論』を読んで技術を考える

梅田望夫平野啓一郎ウェブ人間論 (新潮新書)』を読んだ。

多くの人が感想で述べるように、梅田さんと平野さんの食い違っている部分が面白い。対談なので全体的に突込みが足りないが、それがかえって議論の良い出発点になるのだろう。これから考えるべきことの断片がある。年の初めでいい機会だし、これを起点に思うところを何回かに分けて書き記していきたい。

二人の考え方の違いは彼らの立場上もっともなことだと思う。梅田さんはコンサルタントなので、意思決定者に対して「現在の環境で何をなすべきか」を明確に主張するのが役目。細かいことをぐだぐだ言っても仕事にならない。彼の言説は「インターネットには負の側面もあるが、参加しないリスクより参加することでえる利得がおおきいのだから飛び込んでいくべき」、という主張が基調となっている。一方、平野さんは小説家なので、人間の本質、その強さや弱さに迫るのが役目といえる。その立場で「これからの環境はどうあってほしいか」を考える。負の側面に目が向くのももっともな話だ。そこに今まで隠れていた人間の一面が見出されるのだから。あんまりサバサバしていては、無味乾燥な小説しかかけないだろう。

この二人の立場の違いのおかげで、前著「ウェブ進化論」よりも多面性が生まれ、「人間論」たりえたのだが、この二つの立場だけではやっぱり何か足りないと感じてしまう。私にとってそれは「技術者の立場」だ(もちろんこれは著者の思う壺で、こうやって多くの読者が釣られて何かを書くことになるわけだが…)。

では、この議論で足りていない(と自分が感じる)技術者、あるいは科学者の立場とはどんなものだろうか。

ローレンス・レッシグが論じたように、人間の行動を制約する環境要因として社会規範・法律・物理的要因に加えて「コード」の要因が大きくなりつつある。そして、この「コード」を司る技術者は環境を変える力を持っている。「現在の環境で何をなすべきか」というフレームにとらわれず、どのように現在の環境を変えられるかを考え、実現することができる。そのコードが人間の行動を制約するのだから、一種の権力者である。

もちろん、権力者といっても、技術がこの世界を支配し、技術者が頂点に立つという意味ではない。本書でも「スターウォーズ的な世界観」や、Googleの中の人のちょっと無防備な「世界政府」という言い方として言及されているように、技術者の中には「どのような環境が望ましいか」という部分はナイーブな人が多い。また、何かを作ってしまってから、「その新しい環境でどのように行動すべきか」という意思決定にまで気が回らないこともあろう。技術者が何か作ればそれだけで世界が変わるというものでもないし、それができたとして世界がよりよくなるとも限らない。

だから、コンサルタントやビジネスの立場「ある環境の中ではどう行動すべきか」、および小説家や社会学者の立場「どんな環境が人間にとって幸せなのか」と相補的な役割として、「どのような環境が実現可能か」を提示することが技術者の立場であろう。*1

法を司る権力者が法案や政策提言をするように、コードを司る権力者は技術のアイデアやプロトタイプ、ベータサービスを提言するといったかんじだろうか。技術者のコードが法案であれば、本書は有識者による審議会の報告と言えなくもない。「おまえらの作ったコードで今社会がこんなことになっているけど、どうよ」というわけだ。ならば、「こんな世界もありうるけど、何か?」と示すことができたら技術者冥利に尽きるというものである。

まあそうはいっても、本書で議論されている本質的な面は、すぐに新しい世界、あるいはそれを実装するコード、を提示できるような簡単なものでもない。自分は研究者なので、まずは問題を体系化できれば、ひとまずうれしい。そこから研究の方向性が見えれば、本望である。研究するまでもなく簡単に解決できるということが明らかになれば、それもまた結構なことである。

本書の章立てにそって出発点となりそうな部分を取り上げていこうかと思う。まずは第二章からの各論の大きなところから読み直していこうと思う。

*1:ところで、「環境の可能性の提示」の役割の範囲においては技術者に好き勝手にやらせてほしいものである…。それを社会に組み込んだ帰結まで責任を負わせないでほしい…。その意味で、Winnyの件は微妙なところである。可能性の提示の範囲を越えてしまったということか…