「匿名社会のサバイバル術」を支援する技術

第二章はネットでの匿名性に関する「人間論」が繰り広げられる。匿名・実名の問題は、ネットでは古くから議論されるテーマである。匿名にも実名にもそれぞれ利害得失があり、どちらにすべきという一方的な結論が出る話ではない。この対談は、実名匿名に白黒つけるような「べき論」ではなく、匿名社会での人間のあり方に目を向けている。梅田さんは、現状を認識した上で「その環境変化が抗しがたいパワーを持って我々に迫ってくるとき、僕はそういう変化を前提にどうサバイバルするか」を論じている。書き手としては、自ら情報をどんどんオープンにすることが最大の防御であり、読み手としては、負の部分をやり過ごす(スルーする)リテラシーを身につけるべきであるという。一方、平野さんは人間が身体性に束縛された実名(あるいは「顔」)から解き放たれたとき、どういった人間性がそこにたち現れるかに興味を持ち、書き手のもつ意識から「5種類の言説」があると説く。

ところで、ここで匿名・実名と単純に二分されているが、実際には匿名性にもいろんなレベルがある。それに応じていろんな種類の「名前」があり、それをサポートするツールがある。2ちゃんねるにおける匿名とブログにおける匿名は違ったものがあるし、おなじ2ちゃんねるでもいろんなレベルの匿名性がある。簡単にまとめてみる。

  1. 無名:一つ一つの書き込みが全部「名無しさん」。書き込みの内容から同一人物を推測するできることもあるが、基本的には一発勝負の世界である。
  2. 一時的な仮名:たとえば、2ちゃんねるで、書き込みにIPアドレスをもとにしたIDがつくが、これによって二つの書き込みが同一人物によるものと推定される。また、もう少し継続的に同一人物性を示すにはトリップ(◆の後に続く記号)が使われる。基本的には、簡単に使い捨てられる名前である。名前自体をつくるコストは限りなくゼロに近い。それでも、質問をすれば同一人物から返事が返ってくることでコミュニケーションが成り立ち、一連の書き込みを続けることで、それなりの信用を獲得することができる。そのコンテクスト(自分の体験を語るとか、知っている事実を語るとか)限りにおいての名前だが、自分の言うことを信用してもらおうと思うなら、それなりの振る舞いをして信頼関係を構築するコストをその「名前」に対して払わなければならない。
  3. 継続的な仮名:あるいはコテハン固定ハンドルネーム)。 blogはそのサイトが続く限り、(通常は)同一人物とみなされる。もちろん、2ちゃんねるでもトリップを継続的に使うことによってより継続的な仮名を持つことができる。 blogの違いは、新しい名前(=blogサイト)を作るコストがトリップをつけるよりも少し大きいことと、その名前による書き込みが一覧できる(よって信頼関係を構築しやすい)ところが大きい。
  4. 実名:厳密には顔や指紋など生体的な個を特定する「名前」、法律上・戸籍上の個人を特定する「名前」、あるいは「芸名」などあるが、その人物のリアル世界でのさまざまな行動に結び付けられた名前で、今もっている名前を捨てて新しいものを作るコストは大変大きい。

もちろんこれは明確に分割される区分ではなく、その中間状態を含む連続したものである。

平野さんが実名から(あるいは身体性から)出発していかにそれが切断・開放されうるかという方向に匿名性を考えるのに対し、私としては、逆に、一つ一つの書き込みから出発して、そこからいかに信用できるアイデンティティが構築されうるか、という考えの方により関心がある。この方向性からすれば、実名をさらすというのはアイデンティティ構築の一手法に過ぎない。

梅田さんのサバイバル論も同じ方向性が基本にあるようにおもう。梅田さんが、(読み手として)「ブログの上で歴史を積み重ねてきたら、実名でも匿名でも全く区別はない(p74)」というのは、仮名であっても、名前の継続性がある程度確保されればいい、ということである。また、書き手として「実名とリンクさせてネットの上で何かやると、すごくリアルに跳ね返ってくる」のに対して匿名でできることはかなり限られるといっている。リアル世界での取引に結び付けるに足るだけの信用を構築することができれば、仮名でも可能である(会社とかって、まあそういうものか)。

現状でどうやってサバイバルするかという梅田さんの人間論と並行して、どうやってそのサバイバルを技術的にやりやすくするかという議論があると思う。 個々の書き込みからスタートする信頼構築をサポートする技術が考えられる。

(長い…。あとで書く…)