群衆の叡智に必要な「集約機能」

大人になりきれていない自分は、「大人の振舞い方」が何かまではわからないが…。

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070106/p1

「変わろうとしている」のはたしかなのだが、ここにさらなるイノベーションが未だ創出されていないため、相変わらず「何かを表現したって誰にも届かない」と思っている人がほとんどで、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」と可能性を感じることができるのは、三上さんの言葉を借りれば「踊る阿呆」の中のほんの一部だけ、というのがWeb 2.0の現状での限界なのである。

この「限界」は、それなりに良い「検索(retrieval)」機能があっても、まだよい「集約(aggregation)」機能がないことにあると思う。あるいはsearchはあってもresearchがないともいえるかもしれない。個々のコンテンツを選別する技術は発展してきたが、それらをまとめて消化する作業は依然、人間にまかされている。

今なら『ウェブ人間論』の感想を書けば、すぐに梅田さんに届く(やってみて驚いた)けれど、これは梅田さんの能力と不断の努力によるもので、普通はそうはいかない。情報はオープンなのだから、普通の人でも『ウェブ人間論』というキーワードで検索するなりして同じものを得ることはできる。でもその情報全部を消化する能力も情熱も、一般の人は持たない。


結局、アルファブロガーと呼ばれる人たちの記事を読むにとどまったり、あるいは彼らの目に留まるように、ソーシャルブックマークが釣られやすいようなエンタテイメント性のある書き方に工夫を凝らすことになる。書いている内容の有用性に加えて、さまざまな工夫をして競争に勝ち抜かなければならない。


もちろん、新しいメディアが生まれればそれに必要とされるコミュニケーション能力がうまれる。個人個人がそれを磨くのは良いことだろう。また、blogによって、マスメディアでは見出せなかった才能のある個を発掘できるようになった。これはいいことである。


でもそれ以外の人の表現には価値がないの?結局リアルでの友達に届くだけ?

特別な才能のない一般民衆の書き込みは、ページ単位、記事単位では、読むコストに見合わないだけの価値しかないかもしれない。でもそういうのをかき集めてこそ群衆の叡智なのではないか。


多くの人からの情報をまとめてひとつのかたちにする、という意味ではWikipediaもある。でもWikipediaにも限界がある。ひとつの事柄を、みんなで合意して、ひとつのページにまとめなければならないという点だ。歴史や政治や人物など、人によって見解の分かれるものは大変だ。両論併記でまとまればいいけれど、まさに争っている最中ではそれにすら合意できない。参加者は書き換え合戦で疲弊していくことになる。

結局Wikipediaでは客観的な事実を淡々とまとめるにとどめるしかない。それは有用だけど、つまらない。歴史や政治は、その事実をどう認識するか、解釈するかが面白いところだろう。


Wikiの枠組みではカバーしきれない群衆の叡智を集約するCrowdpediaが必要になろう。

たとえば「恋とは?」ときけば、恋についてのさまざまな人の表現があらわれ、さまざまな体験がまとめられていて、自分と似たような境遇での他の人の体験や言葉に励まされたりする。

たとえば「嫌韓とは?」「匿名とは?」「無断リンクとは?」ときけば、まさに今どんな対立点で言説が戦わされているのか、そこで人々はどんな政治的・思想的立場によっているのかが知覚される。

たとえば「『ウェブ人間論』とは?」ときけば、梅田さんのように労力をかけなくても、もっと効率的にいろんな観点を網羅できる。


現在ビジネスの世界では業務データを集約してそこから知見をえる「ビジネス・インテリジェンス」が開発されているが、ここで扱う情報はリレーショナル・データベースに入るような「かっちりした」情報である。ウェブのようなもっとやわらかいデータに関して同様なことができるようになれば、Crowdpediaも実現できるのではないだろうか…。