圏外からの眺め

衛星からの北朝鮮の夜景を見たことがあるだろうか。周りの国が光を放つ中、闇の中に人々が暮らしているかと思い、どきりとさせられる画像である。

それと同じようなものがある。英語圏から見た日本だ。周りの国が光を発している中で、日本からの光はまったく目立たない。全くの闇ではないが、その中にあれだけ多くの人が暮らしていることを考えると、この光のなさにはある種の恐怖を覚える。日本の中にいると、なかなかこの感覚はわからないかもしれない。国内ではどんなものでもどんな情報でも溢れているように見える。日本語圏内では逆に光が強すぎて、外のことが全く見えないんじゃないかと思う。

もちろん、日本では英語ができなくても立派に生きていけるし、多くの人は英語で発信することに意味を見出せないかもしれない。英語なんてものは「語学」という教養の一アイテムかもしれない。でも英語圏における、日本のこの存在感のなさは異常に感じる。日本の持つ(と自分が信じてる)国力にまったく見合っていない。米国在住の人間がこんなことを書くと、「またアメリカ万歳か」と思われるかもしれない。そしてアメリカ合衆国のもつ問題を取り上げ、そうはなりたくないと言うかもしれない。確かに、アメリカはそのうち没落するかもしれない。けれど、いまや世界に広がった英語圏はますます大きく発展していくだろう。アメリカが没落してチャンスを得るのは英語圏の中の人であって、日本語圏の中の人ではないと思う。

日本語圏に閉じこもることは、今までは国内市場を外から守るのに利してきたかもしれない。しかし、英語圏にできつつある圧倒的なスケールの市場の前で、今の引きこもり状態は大きな足かせとなっていると思う。これまでのように、製品をやり取り(輸出入)するだけなら、黙っていい物を作れば何とかなる部分もあったかもしれない。しかし今起こっているのは、労働やアイデアなどの流通の拡大である。日本語圏に閉じこもりながら、外にも何かを売っていくという方法は難しくなる。


最近、自分の研究グループでは研究員を公募した。アメリカで働ける人を前提にしているが、それでも世界中からレジュメが送られてくる。ヨーロッパ(東欧も含む)、インド、中国、韓国、シンガポール、オーストラリアなど。また、米国内からの応募もほとんどは外国籍の人だ。だが日本からは(日本人からも)一件も応募はない。まあ、分野も限られているし、わざわざ海外に出て日系の会社に勤めたいとは思わないかもしれない。だがそれ以前に、そんな応募が英語圏で出回っているということがあまり知られていないんじゃないかと思う。日本に普通に暮らしていると、英語圏労働市場は意識の「圏外」なのだろう。

英語圏労働市場の拡大は、人間の移動を伴わない形でも実際に進んでいる。研究所のあるプロジェクトでは、研究成果の製品化のために東欧のある国に開発チームを結成した。それは賃金の安い国に単純労働を下請けに出すといったレベルではなく、世界中の頭脳をいかにダイナミックに結集させるかといった問題なのである。であれば、本来なら日本にいながら英語圏の中に入っていくことも可能なはずである。だがそれがあまり起こっていないのは、日本語圏内でのつながりがあまりに濃厚すぎて、その「圏外」に意識を向けようとすることが難しいからではないか。

だから、普段から英語圏に光を発していることが大切である。個人個人がもっと光を発してほしい。

先の研究員の募集の場合でも、それがいえる。仮に日本からレジュメが送られてきたとしても、実際のところ、日本の研究者はだいぶ不利だと思う。その人の持つ能力に比して普段の英語圏へのアピールがたりないからである。送られたレジュメのうち検討の対象となるような人は皆、トップレベルの国際学会(我々の分野ではSIGMOD, VLDB, ICDE, KDD, WWWとか)で論文発表を行っている。ところが、こういった国際学会での日本のプレゼンスは非常に低い。アジアの中でも中国・インドにはもちろん、分野によっては韓国やシンガポールにも負けている。さらに、アメリカに住んでいる中国人、インド人をカウントすると、日本人の割合は圧倒的に少なくなる。それでも、日本人が他の国の人より劣るとか、日本の研究機関が劣っているとは思わない。優秀な人材はいっぱいいると思う。ただ、国内で業績を上げている立派な研究者も、そういった国際学会の場で発表していなければ英語圏からは全く見えてこない。


先日、日本のある若手の研究者とこちらで会う機会があった。スタンフォードで開かれた国際学会に参加しにきたのだが、「敗北感を認識するためにやってきた」という。彼は最近までスタンフォードに留学していたが、帰国して日本の大学の准教授となった。日本にいると、今まで持っていた危機感が日常の中で薄れてしまいそうになる、と言っていた。彼にも日本の「北朝鮮の夜景」状態が見えているのだ。そしてその感覚を失ってしまう怖さも。日本の大学から、どうやって世界に伍して戦うか、どうやって日本から光を発するか、そのために奮闘している。

彼や、他の若手の大学教官たちが訴える危機感を総合すると、上の世代は「逃げ切り」状態で後先のことを考えず、学生たちはマスコミの流す情報に晒されるのみで全く危機感を持っていない、ということのようだ。まあ確かに、大学教授は構造的に日本の巨大な官僚システムに組み込まれているから、上の世代が身動きが取れず、結果的に体制維持的になるのはわかる。また、ネットが発達したとはいえ、そのほとんどがマスコミの流す情報をネタとして消費するだけというのが現状とすれば、学生たちの「知らされていない」状態もわからないでもない。だからこそ、若手の活躍に期待したい。上の人に依存せず、まず隗より始めてほしい。外に対して光り輝いてほしい。そして、学生たちに影響を与えてほしい。若手がんばれ。超がんばれ。