梅田発言にまつわる雑感:入り口で絞るか、出口で絞るか

梅田さんの発言
直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japan
を読んで、「まあそうだよねえ」と思っていたら、
ネットでのすごい反響(嵐のような反応を読んで - My Life Between Silicon Valley and Japan)。

その反響のほうにある意味感銘を受けた。

以下、思ったことを書いてみる。

discouragingな日本の言説

いま自分は本業では米国の研究者(といっても中国人が多いが)と同じ立場で、日本(の本社)に対して
研究成果を売り込んでいる立場にある。
その立場(我々=米国、彼ら=日本)からみると、日本の人たちとの会議にはげんなりさせられることが多い。
まあ英語力の問題とか、会議をするのに意思決定がされないとか、他にも要因はあるが、
一番きついのは、はじめからdiscouragingなことばかりいうことだ。
まるでそれが仕事であるかのように(まあ仕事なんですが…)。

「わからないこと」に対してまず否定から入る。でもそれじゃあ研究なんてできないよ…。

会議が終わると、がっかりする同僚や部下を励ましてあげる必要がある。彼らも別に君の成果を否定している
つもりはないのだよ…と。

でも彼らの立場も言い方も理解はできる(日本人だしね…)。会社の業績を伸ばそうと真摯に努力しているのも、
こちらの話を真剣に聞いてくれているのもわかる。本当は彼らだって、技術者(あるいは元技術者)として未知の
ものにわくわくする心を持っていると思う。ただその心を開くのが不謹慎かのような雰囲気がある。

これが現在の会社のしかも研究開発に限ったことなのか、日本全体を覆っている雰囲気なのかは
わからないが、もし後者だとしたら、日本の若い人たちが梅田さんの一言に感動してしまう
のも無理はないのかもしれない。

ネットでの「粗探し」的言説について

ネットにおける他人に対しての否定的な言説(DISる?)との関連で「梅田発言」をうけとめた人も多かったようだ。

ネットで「粗探し」するのは、単純にいって非効率だと思う。

ネットには自分にとって必要でない情報のほうが必要なものよりはるかに多い。ネットの大量の情報に
対して否定しつくすには人生は短すぎる。きりがないのだ。その(あなたにとっての)ゴミにそれだけの
時間をかける価値があるだろうか?

自分がいいと思うものをピックアップする、あるいはこれがいいと思うものを自分でクリエイトする。
そういうことに時間を使ったほうが効率がよいと思うのだけれど…。

たとえば、CinemaScapeでは、コメンテータ同士で他人の映画評に投票ができるようになっている
(「ブクマ」に似た役割を果たしている)。ただし、投票にはマイナス評価はなく、評価のコメント
(ブクマコメントみたいなもの)もあえて導入していない。

つまり、「プラスか、スルーか」の選択肢しかない。

これは他人を批判してはいけないとか、何でも褒めろとか、そういう精神論ではなく、
コメント群総体としての価値を高めるためのシステムデザインと考えている。
まずはとにかく映画評を書けよ、と。まずは書かないことには何もはじまらない。
そこに最大限の自由と多様性を保ちつつ、読む側のほうでそれを整理選別すればよい。

それが他の場合にもうまくいくとは限らないけれど、限定された環境ではそれなりに長続きしてうまくいっている。

入り口で絞るか出口で絞るか

さて、上記のどちらの話も結局「入り口で絞るか、出口で絞るか」という選択の問題とみられる。

どちらがいいかとは一般論では決められない。

方向性が上から与えられて、予算枠が決まっていて、雇用に流動性がない。そういう環境
であれば入り口で絞るのが合理的な方法かもしれない(あ、今の日本のIT業界か?)。

ただ、後者の方法、入り口ではあまり絞らずに、とにかく沢山多様なものを出し合って、
それを集約する過程で選別する、そういったやり方のほうが、今は勢いを持っている。

大量の情報から有用なものを取り出したり、沢山の人から自分に会った人を見つけたり
そういった「出口で絞るための機能」(検索機能や集約機能)が飛躍的に向上しているからだ。

日本がそれに乗り切れていない部分があるのかもしれない。

蛇足:「痛い」もの批判について

世の中には、ゲーム脳とか水に語りかけてしまったりする人とか、似非科学がはやったりする。
また逆に科学者は科学者で、政治や思想の面で簡単に「痛い人」になってしまう。

指摘してもきりがないし、スルーすればいいのだろうが、それが社会性を帯びてしまった
場合(子供の教育とか、国策に影響するとか)、こういう「痛い」ものを批判するのも
一定の意義があると思う。

でもそういう批判には「笑い」が必要で、単なる中傷や無粋な批判にならないようにするには
ある程度センスが要求される思う。

Googleに対抗するとしたら

情報大航海プロジェクトはGoogle対抗国産エンジンを作るのが目的ではないとしても、あえて対抗したいとしたらどうするか?*1

検索エンジンの破壊的な技術革新はもはやない」か?

ちょっと古い記事になるが、各国の「Google対抗意識(検索エンジンナショナリズム)」として韓国の例を取り上げた記事に次のような記述があった。

Googleの覇権を相対化するもの | 日経 xTECH(クロステック)

では日本の「情報大航海」のように,新規参入を試みる検索エンジン・プロジェクトにとって,韓国の事例は何を意味するだろうか?それを考える際に紹介したいのが,Web 2.0の提唱者,ティム・オライリー氏が最近語った検索エンジンの現状に対する次の意見だ。

 「Google英語圏の市場を奪ったとき,彼らのサービスは競合他社よりも優れていた。しかし,今やどの検索エンジンも性能的には大差無い。逆に言うと,既にGoogleに馴れ親しんでいるユーザーが他の検索エンジンに切り替える理由は見当たらない。検索エンジンに関しては,破壊的な技術革新(disruptive innovation)の余地はもはや無いと思う。検索エンジンは技術革新の時代を終えて,整理統合の時代に移行しつつある」

 当分の間は,破壊的な技術革新は起こせない。検索エンジンの改良で差が付かないのであれば,どうすればよいのか。

「破壊的な」技術革新はその定義上、単なる検索性能向上(そういうのを「持続的」技術革新という)の問題ではないはずであり、これは論旨がちょっとおかしい。*2「持続的技術革新の余地は少なくなり、もはや破壊的技術革新を待つまでになった」というほうが正しいのでは?

じゃあ実際のところ、現在の検索エンジンに対する破壊的な技術革新(disruptive innovation)とはどんなものだろうか?

Googleの覇権を相対化するもの」

この点に関しては以下の記事の方が的確だと思う。ここでいう「相対化」="disruption"ととらえていいだろう。*3

Googleの覇権を相対化するもの | 日経 xTECH(クロステック)

この記事の問いかけを簡単にまとめると次のようなものである。

問:次の「?」をうめよ

  • IBMのハードウェア覇権→オープンシステムにより相対化
  • Microsoftのソフトウェア覇権→オープンソースにより相対化
  • Googleのサービス覇権→「?」により相対化

Googleが他の追随を阻む要素として、

Googleの競争力の源泉は,そのインフラである数十万台とも言われるサーバー群と,集積されたデータだ。

と、インフラからサービスまでの垂直統合を挙げている点も同意。破壊的な技術革新はここを侵食しなければ。

そのためにはオープンソースだけでは足りなくて、オープン「リソース」が必要であろう。世界中の情報に関して誰でも任意の計算(ランキング、分析など)ができる環境である。*4

ということで、とりあえず:

  • Googleのサービス覇権→オープンリソースにより相対化

としてみる。

Google対抗プロジェクト:オープンランキング

Googleの覇権のもとでのひとつの弊害は「ランキング」の独占(寡占)化だろう。検索エンジン側が何を収録するか、どう順序付けるか、ランキングの自由度は非常にあるのに対して、利用者側の検索エンジン(あるいはランキング)の選択の自由度は少ない(無いとは言わない)。この不均衡が「グーグル八分」という問題を引き起こしている。検索エンジンをもう一つ作ったくらいじゃ状況はあまり変わらない。

Googleに対抗したいのなら、ランキングをオープンにして、無数のランキングで世界をあふれされることだろう。ユーザはその中から自分にあったランキングを選んでいれば、この様な問題は軽減されるだろう。

新しいランキングを作ったら、オープンリソースの上で誰でも簡単に試せるようでなければならない。巨大データで遊ぶのは、もうGoogleの中の人の特権ではなくなる。

オープンリソースの上で、検索エンジンは次のように解体される。

  • データの取得・蓄積 → オープンデータ
  • ランキングや情報分析 → オープンランキング

このランキングや情報分析の部分をコンポーネントとして流通させ、市場の中でランキングを進化させてみたい。

このコンポーネントを仮に「フィルター」と呼んでみる(あるいは、関数でもクエリでも何でもいい)。フィルターといっても単に情報を取捨選択するだけでなく、複数の情報を統合したり、集計を取ったりというデータ操作一般を行う。ひとつのフィルターは世界の「ひとつの見方」をあらわしている。

一般的な検索だけでなく、たとえば口コミサイトなどもフィルターで実現される*5。フィルターを検索するフィルターも提供される。いくつものフィルターをマッシュアップして「オリジナルブレンド」のランキングを作ることもできる。

フィルター提供者は、それを記述するだけでよく、それに必要なリソースは利用者が必要とされるだけ割り当てられる。Googleをもう一つ作るのに、サーバの心配をしたり発電所の心配を(フィルター提供者は)しなくてよい。

さてこれをどうやって記述するか、どうやって実行するか、いろいろ技術的な課題があって、妄想していると楽しい。

…。ところで、破壊のあとにどんなビジネスが…?

それはわからない…。なんか出てくるであろう。

それじゃあ経産省的プロジェクトとは対極かな…。べつにいいけど…。

*1:ちなみに僕個人はプロジェクトとは関係なく、外野でつぶやいているだけです。インサイダーの知り合いは多いのですが…。

*2:オライリー氏の原文がわからないので本当にどう言ったかはわからない。

*3:ただし、この記事の後半の「サービスを超えるパラダイムは存在するか」という問いには「サービス」の定義がはっきりしないので答えられない。結局、その定義は、今で言うところの「サービス」を相対化するような概念が現れて初めてはっきりするのだろう…。これまでだって、「サービス」というパラダイムが提示されるまでは、何でもみんな「ソフトウェア」だったのだから…。つまりパラダイムというのは歴史を振り返ってのみ語ることができる。

*4:そんなこともあって、Gridコンピューティングの活動にもちょっと首を突っ込んだのだが…。この話は別の機会に…。

*5:そして口コミ「サイト」はやっとその役割を終える…。

口コミサイトのスケーラビリティ

先日日本への出張の際、久しぶりにlivedoor 東京グルメを利用した。

アスキーの実験サイトから個人運営の時代を経て、現在はライブドアに買収されている。実験サイトの立ち上げに参加したものとして、今も続いていてくれているのがうれしい。管理者の熱意とそれを支えたコミュニティの力だろう。

管理者のブログをさかのぼってみていたら、興味深いエントリを発見。
注目のクチコミ:クチコミ・サイトは弱体化している? - livedoor Blog(ブログ)

この中で引用されているのが日経BPの「デジタルARENA」の次の記事だ。
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20061003/119059/

筆者の岡部敬史氏はブログ進化論の著者でもある。彼の主張点は次の2点である。

  1. 人が多くなってつまらなくなった
  2. 個人がブログで情報発信できるから口コミサイトの役割は終わったかも

私の観点からすると、この問題は「どうやって知を集約するか」というWisdom of Crowds (集合知)の課題に通じる。

これは、どうやって口コミサイトにスケーラビリティを持たせるか(あるいはインターネット規模のオープン性を持たせるか)という問題であり、現在のWeb2.0の枠組みが口コミサイトをうまく取り込めていない原因は何か、という問題でもある。

人大杉の問題

岡部氏は状況を雑誌にたとえて、必要以上に部数を増やすと大衆を意識しすぎて魅力がなくなると述べている。

つまり、大衆を意識するということは、実像がボヤけることでもあるのだ。

 やはり「livedoor グルメ」をはじめとする口コミサイトは、どこまでいってもゲリラメディアであるし、そこを忘れてはいけないと思う。変にテレビのようなメジャー志向を持つと、根幹からその存在意義が薄れるような気がしてならないのだ。

まあこれは普遍的な問題としてよく話題にされるものだ。『ウェブ人間論』でも平野氏が同様の問題を懸念していたと思う。

そして岡部氏はこう提案している。

これからの口コミサイトは、一定の会員数に達した時点などに、招待制へと切り替えてみてはどうか

編集者らしい考え方だと思う。雑誌の場合は編集者が固定的な「知の集約」を行って記事にする。どうやって人を絞り込むかは大きな課題だ。

でも、ウェブの場合は、その場のニーズでどのような編集も(技術的には)できるはずだ。データの収録(入り口)と表示(出口)は別のもので、そこに情報検索・集約機能が介在する。

情報の入り口では制限をしすぎない方が良い。入り口を窮屈にすると、個々人の素直な発言を知ることができなくなる。それこそ雑誌や新聞の投書欄みたいに、演出がかった「期待される発言」ばかりになってしまいかねない。

一方で情報の出口は工夫が必要だ。

数多くの意見の単純な平均がつまらないのは当然である。また、個々人の顔が見えなくなれば、コミュニティとしての盛り上がりも薄くなるだろう。

スケーラビリティ1:人のスケーラビリティ(オープン性) ― 数多くの意見を意見を取り込みつつ、有意義で面白い情報集約が(自動的に)可能か?

たとえば、

  • とんがったランキング
  • 熱いコミュニティ

をどうやって抽出するか?ページランクとは違った種類のランキング技術や、コミュニティ解析技術が必要になってくる。

個人発信メディアの競合の問題

岡部氏は書く。

「ブログなどの個人が評価する時代になり、役割を終えた」。誰もが自分の“口コミサイト”を作れるようになりつつあるからだ。

確かに、情報の入り口の問題として、ブログやSNSやあるのにわざわざ口コミサイトに書き込もうという動機付けが薄れるのはあると思う。

ただそんな状況でも口コミサイトにあえて参加したいという人はいる。これはlivedoorグルメの管理者が異議を唱えるとおりである。*1

根本的な違いは、書き込みがデータベースと関連付けられて整理される点だろう。

  • 読む側にとって、さまざまな人の意見がモノを軸に一覧できる。ブログではこのような読み方は難しい。
  • 書く側にとっても、モノを介して人とのつながりができる。これは、人と人が直接つながるSNSとはまた違った感覚である。友達かどうかではなく、同じモノに興味を持った人がつながっていく。他人との趣味の一致点や相違点も一覧できる(類似度も算出される)。*2

理想的には、自分のブログに書き込むと、それがレストランに関するものならグルメサイトへ、映画に関するものなら映画サイトへとその情報が組み込まれるようになるとうれしい。別にブログと競合する必要はない。

ブログが「自分の分身」であるならば、さらにその分身がモノの分野(レストラン、映画、音楽、…)ごとに自然と出来上がる感覚だ。

あらゆる情報を個人を軸に整理したり、モノを軸に整理したりする。これは今の「検索+ブログ/SNSソーシャルブックマーク」の組み合わせではできない。

スケーラビリティ2:モノのスケーラビリティ(オープン性) ― 口コミの集約をあらゆるモノに対して自動的にできるか?

これを実現するには、書き込みが「誰が何についてどう評価しているのか」を自動的に認識できなければならない。

マイクロフォーマットもいろいろ提案されているが、あらゆるものを決まりごとで縛るのは難しく、大枠を決めるにとどまるであろう。(関係)データベースのような構造化データを期待するわけには行かない。

自然言語解析やテキスト・マイニングの技術も日進月歩で進んでいる。特に、Opinion Extraction の研究は近年盛んで、TRECのBlog trackもブログの中から口コミ情報を検出する機能のベンチマークの作成に取り掛かっている。

ただこれらの自動認識技術も、「完璧」からは程遠い品質である。これが使い物になるかならないか、そこには使い方の技術が必要だ。

不完全な(ゆるい)構造化データをいかにデータベース的に扱うか。個人的には今ここの技術に注目していきたいと思っている。

*1:CinemaScapeでは長い間、新規ユーザの登録を停止していた。その間にブログやSNSもブレークし、今更口コミサイトではないのかも…とも思った。しかし、「何年も登録を待っている」というメールをいくつも頂き、それに励まされて参加者招待制を始めることとなった

*2:なお、CinemaScapeの場合は、ネタバレ映画評の管理機能があることも理由のようです。mixiではネタバレの映画評は書きにくい(それを隠す機能がないから)。ドメインに特化したサービスも必要ということですね。

情報大航海の中の人にきいてみた。。。

日本出張で久しぶりに古巣の大学を訪問し、情報大航海プロジェクトの中のえらいひとにお会いした。


当初、官製グーグル(日の丸検索エンジン)つくってどうする?みたいな批判が多かったが、経済産業省の人の反論もあった。官僚側のえらいひとやITベンダーの中の人々と、大学のえらいひとでは考えも違うかもしれないが、実際のところを(酒の席で)うかがった。

たしかにプロジェクト構想の初期には、打倒グーグルみたいな発想があったそうだ。でも議論を進めてすぐに、同じ方向性で対抗してもしょうがない、という結論に達したそうだ(まあそりゃそうだ)。映像解析やセンサー技術など、日本に優位な技術がある分野に注力するということと、インターネットの情報だけに限らず、実世界の情報(センサー情報とか)を対象にしようという話になったとのこと。


プロジェクトの成果としては、従来のように「ITベンダーが集まってプロダクト(のようなもの)を作りました」というのではなく、なにか新しいサービスが生まれてくることを目標とした「サービス志向」だそうだ。ユーザ企業が商業的価値のある新事業を立ち上げられるようになるところまでがプロジェクトのスコープに入っているようだ。

この目標のため、プロジェクトは3つのレイヤにわかれている。(1) モデルサービスの実証、(2) 次世代検索・解析技術の開発、(3) 研究開発基盤の整備。

(1)のモデルサービスの実証では、ユーザ企業の主導でサービスを(「次世代検索・解析技術」を使って)展開していく。社会インフラになるような大きな事業(交通機関や医療など)から、ベンチャー企業によるとんがったものまで、幅広く可能性を見ているようだ。結局ここにどんな人が集まるかにプロジェクトの成否がかかっていると思う。

このモデルサービスの実証では、その「商業的成功」をゴールとしているそうだが、何をもって商業的成功とするかというのは詳しくわからなかった(あまり決まってないのかもしれないが)。この「成功」が、投資した予算に見合うだけの収益を上げるというのであったらちょっと大変だ(そもそも、もしそれがうまく行くなら、国じゃなくて投資家が投資できるわけだが)。新しいサービス事業が生まれればよい、といっても、単発のサービスを一つか二つ作って終わり、というのではなく、商業的に成功できるようなサービスがいろいろ生まれてくるような「社会的インフラ」が整備される、というのが国家プロジェクトとしてのゴールではなかろうか。「商業的な成功」というのは、その事業自体への投資効果というより、インフラの有効性の実証として評価すべきなのだろう。

(2)は要するに、従来のように産学協同で技術開発を行う部分であるが、あくまでもモデルサービス志向で、それをサポートするような技術を共同開発するというところが違うようだ。まあ従来のように複数のベンダが集まってひとつのものを作るのだ、というよりはよいのだろうと思う。カギは(1)と(2)がどううまく組み合わさるか…。そもそも新事業が生まれるほどのすごい技術があったらITベンダがそれを共同プロジェクトの場に出したがらない、ということもあるだろうから、うまい仕組みが必要そうだ。この辺をもっと詳しくきいてみたかった。
また、技術開発のところでは、国内大手ベンダに限らず、海外企業やベンチャー企業など、優れた技術を持っていれば幅広く参加をしてもらうそうだ。

(3)の研究開発基盤の整備は、大規模開発環境を国が整備し、その上でサービスの開発や実験が行えるようにしたいとのこと。グーグルラボのオープンなやつみたいなものだろか?ときいたら、まあ「そんなに超大規模なものが用意できるわけではない」とのことだが。でも、いままで大規模データで遊ぶにはGoogleの中の人になるしかなかった(わけでもないけど)が、そういう環境を簡単に利用できるよう整備する意味はあると思う(どれだけ「遊ばせて」くれるかは知らないが…)。

この3つのレイヤーがどううまく機能していくかはこれからの課題だろうが、とにかくオープンにいろんな(優秀な)人に参加してもらいたいそうだ。どうやって参加できるか、そもそも参加する魅力があるか、そのうちオフィシャルなところから詳細がわかってくることと思う。


あと、文部科学省科研費で「情報大爆発プロジェクト」というのがある(実はここでちょっと講演するために大学を訪問した)。

この情報大爆発プロジェクトと情報大航海プロジェクトと何が違うのか?重複したことを別の省庁が二重に投資しているのか?それともスコープがぜんぜん違う?

聞いてみると、大爆発プロジェクトは大学での基礎研究、大航海は産業応用という位置づけだそうだ(言われてみればそのまんまだが。。。)。第五世代コンピュータのころと違って、経産省が基礎研究に投資することはもうできないそうだ。うまく連携できるようにしたいとのこと。大航海プロジェクトに大学が参画しているのはそういった連携をねらっているそうだ。


こうやってみてみると、情報大航海プロジェクトは、Googleに対抗するというよりはむしろ、シリコンバレーに対抗すると見たほうがよさそうだ。特定の技術やシステムの構築ではなく、イノベーションを創生するプラットフォームの構築ということだ。

ねらいとしては、Google対抗の日の丸検索エンジンなんかよりずっとよいことだと思う。

でもグーグル一社なんかに対抗するよりずっと手ごわいですよ。シリコンバレーは。

群衆の叡智に必要な「集約機能」

大人になりきれていない自分は、「大人の振舞い方」が何かまではわからないが…。

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070106/p1

「変わろうとしている」のはたしかなのだが、ここにさらなるイノベーションが未だ創出されていないため、相変わらず「何かを表現したって誰にも届かない」と思っている人がほとんどで、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」と可能性を感じることができるのは、三上さんの言葉を借りれば「踊る阿呆」の中のほんの一部だけ、というのがWeb 2.0の現状での限界なのである。

この「限界」は、それなりに良い「検索(retrieval)」機能があっても、まだよい「集約(aggregation)」機能がないことにあると思う。あるいはsearchはあってもresearchがないともいえるかもしれない。個々のコンテンツを選別する技術は発展してきたが、それらをまとめて消化する作業は依然、人間にまかされている。

今なら『ウェブ人間論』の感想を書けば、すぐに梅田さんに届く(やってみて驚いた)けれど、これは梅田さんの能力と不断の努力によるもので、普通はそうはいかない。情報はオープンなのだから、普通の人でも『ウェブ人間論』というキーワードで検索するなりして同じものを得ることはできる。でもその情報全部を消化する能力も情熱も、一般の人は持たない。


結局、アルファブロガーと呼ばれる人たちの記事を読むにとどまったり、あるいは彼らの目に留まるように、ソーシャルブックマークが釣られやすいようなエンタテイメント性のある書き方に工夫を凝らすことになる。書いている内容の有用性に加えて、さまざまな工夫をして競争に勝ち抜かなければならない。


もちろん、新しいメディアが生まれればそれに必要とされるコミュニケーション能力がうまれる。個人個人がそれを磨くのは良いことだろう。また、blogによって、マスメディアでは見出せなかった才能のある個を発掘できるようになった。これはいいことである。


でもそれ以外の人の表現には価値がないの?結局リアルでの友達に届くだけ?

特別な才能のない一般民衆の書き込みは、ページ単位、記事単位では、読むコストに見合わないだけの価値しかないかもしれない。でもそういうのをかき集めてこそ群衆の叡智なのではないか。


多くの人からの情報をまとめてひとつのかたちにする、という意味ではWikipediaもある。でもWikipediaにも限界がある。ひとつの事柄を、みんなで合意して、ひとつのページにまとめなければならないという点だ。歴史や政治や人物など、人によって見解の分かれるものは大変だ。両論併記でまとまればいいけれど、まさに争っている最中ではそれにすら合意できない。参加者は書き換え合戦で疲弊していくことになる。

結局Wikipediaでは客観的な事実を淡々とまとめるにとどめるしかない。それは有用だけど、つまらない。歴史や政治は、その事実をどう認識するか、解釈するかが面白いところだろう。


Wikiの枠組みではカバーしきれない群衆の叡智を集約するCrowdpediaが必要になろう。

たとえば「恋とは?」ときけば、恋についてのさまざまな人の表現があらわれ、さまざまな体験がまとめられていて、自分と似たような境遇での他の人の体験や言葉に励まされたりする。

たとえば「嫌韓とは?」「匿名とは?」「無断リンクとは?」ときけば、まさに今どんな対立点で言説が戦わされているのか、そこで人々はどんな政治的・思想的立場によっているのかが知覚される。

たとえば「『ウェブ人間論』とは?」ときけば、梅田さんのように労力をかけなくても、もっと効率的にいろんな観点を網羅できる。


現在ビジネスの世界では業務データを集約してそこから知見をえる「ビジネス・インテリジェンス」が開発されているが、ここで扱う情報はリレーショナル・データベースに入るような「かっちりした」情報である。ウェブのようなもっとやわらかいデータに関して同様なことができるようになれば、Crowdpediaも実現できるのではないだろうか…。

 「匿名社会のサバイバル術」を支援する技術

第二章はネットでの匿名性に関する「人間論」が繰り広げられる。匿名・実名の問題は、ネットでは古くから議論されるテーマである。匿名にも実名にもそれぞれ利害得失があり、どちらにすべきという一方的な結論が出る話ではない。この対談は、実名匿名に白黒つけるような「べき論」ではなく、匿名社会での人間のあり方に目を向けている。梅田さんは、現状を認識した上で「その環境変化が抗しがたいパワーを持って我々に迫ってくるとき、僕はそういう変化を前提にどうサバイバルするか」を論じている。書き手としては、自ら情報をどんどんオープンにすることが最大の防御であり、読み手としては、負の部分をやり過ごす(スルーする)リテラシーを身につけるべきであるという。一方、平野さんは人間が身体性に束縛された実名(あるいは「顔」)から解き放たれたとき、どういった人間性がそこにたち現れるかに興味を持ち、書き手のもつ意識から「5種類の言説」があると説く。

ところで、ここで匿名・実名と単純に二分されているが、実際には匿名性にもいろんなレベルがある。それに応じていろんな種類の「名前」があり、それをサポートするツールがある。2ちゃんねるにおける匿名とブログにおける匿名は違ったものがあるし、おなじ2ちゃんねるでもいろんなレベルの匿名性がある。簡単にまとめてみる。

  1. 無名:一つ一つの書き込みが全部「名無しさん」。書き込みの内容から同一人物を推測するできることもあるが、基本的には一発勝負の世界である。
  2. 一時的な仮名:たとえば、2ちゃんねるで、書き込みにIPアドレスをもとにしたIDがつくが、これによって二つの書き込みが同一人物によるものと推定される。また、もう少し継続的に同一人物性を示すにはトリップ(◆の後に続く記号)が使われる。基本的には、簡単に使い捨てられる名前である。名前自体をつくるコストは限りなくゼロに近い。それでも、質問をすれば同一人物から返事が返ってくることでコミュニケーションが成り立ち、一連の書き込みを続けることで、それなりの信用を獲得することができる。そのコンテクスト(自分の体験を語るとか、知っている事実を語るとか)限りにおいての名前だが、自分の言うことを信用してもらおうと思うなら、それなりの振る舞いをして信頼関係を構築するコストをその「名前」に対して払わなければならない。
  3. 継続的な仮名:あるいはコテハン固定ハンドルネーム)。 blogはそのサイトが続く限り、(通常は)同一人物とみなされる。もちろん、2ちゃんねるでもトリップを継続的に使うことによってより継続的な仮名を持つことができる。 blogの違いは、新しい名前(=blogサイト)を作るコストがトリップをつけるよりも少し大きいことと、その名前による書き込みが一覧できる(よって信頼関係を構築しやすい)ところが大きい。
  4. 実名:厳密には顔や指紋など生体的な個を特定する「名前」、法律上・戸籍上の個人を特定する「名前」、あるいは「芸名」などあるが、その人物のリアル世界でのさまざまな行動に結び付けられた名前で、今もっている名前を捨てて新しいものを作るコストは大変大きい。

もちろんこれは明確に分割される区分ではなく、その中間状態を含む連続したものである。

平野さんが実名から(あるいは身体性から)出発していかにそれが切断・開放されうるかという方向に匿名性を考えるのに対し、私としては、逆に、一つ一つの書き込みから出発して、そこからいかに信用できるアイデンティティが構築されうるか、という考えの方により関心がある。この方向性からすれば、実名をさらすというのはアイデンティティ構築の一手法に過ぎない。

梅田さんのサバイバル論も同じ方向性が基本にあるようにおもう。梅田さんが、(読み手として)「ブログの上で歴史を積み重ねてきたら、実名でも匿名でも全く区別はない(p74)」というのは、仮名であっても、名前の継続性がある程度確保されればいい、ということである。また、書き手として「実名とリンクさせてネットの上で何かやると、すごくリアルに跳ね返ってくる」のに対して匿名でできることはかなり限られるといっている。リアル世界での取引に結び付けるに足るだけの信用を構築することができれば、仮名でも可能である(会社とかって、まあそういうものか)。

現状でどうやってサバイバルするかという梅田さんの人間論と並行して、どうやってそのサバイバルを技術的にやりやすくするかという議論があると思う。 個々の書き込みからスタートする信頼構築をサポートする技術が考えられる。

(長い…。あとで書く…)

『ウェブ人間論』を読んで技術を考える

梅田望夫平野啓一郎ウェブ人間論 (新潮新書)』を読んだ。

多くの人が感想で述べるように、梅田さんと平野さんの食い違っている部分が面白い。対談なので全体的に突込みが足りないが、それがかえって議論の良い出発点になるのだろう。これから考えるべきことの断片がある。年の初めでいい機会だし、これを起点に思うところを何回かに分けて書き記していきたい。

二人の考え方の違いは彼らの立場上もっともなことだと思う。梅田さんはコンサルタントなので、意思決定者に対して「現在の環境で何をなすべきか」を明確に主張するのが役目。細かいことをぐだぐだ言っても仕事にならない。彼の言説は「インターネットには負の側面もあるが、参加しないリスクより参加することでえる利得がおおきいのだから飛び込んでいくべき」、という主張が基調となっている。一方、平野さんは小説家なので、人間の本質、その強さや弱さに迫るのが役目といえる。その立場で「これからの環境はどうあってほしいか」を考える。負の側面に目が向くのももっともな話だ。そこに今まで隠れていた人間の一面が見出されるのだから。あんまりサバサバしていては、無味乾燥な小説しかかけないだろう。

この二人の立場の違いのおかげで、前著「ウェブ進化論」よりも多面性が生まれ、「人間論」たりえたのだが、この二つの立場だけではやっぱり何か足りないと感じてしまう。私にとってそれは「技術者の立場」だ(もちろんこれは著者の思う壺で、こうやって多くの読者が釣られて何かを書くことになるわけだが…)。

では、この議論で足りていない(と自分が感じる)技術者、あるいは科学者の立場とはどんなものだろうか。

ローレンス・レッシグが論じたように、人間の行動を制約する環境要因として社会規範・法律・物理的要因に加えて「コード」の要因が大きくなりつつある。そして、この「コード」を司る技術者は環境を変える力を持っている。「現在の環境で何をなすべきか」というフレームにとらわれず、どのように現在の環境を変えられるかを考え、実現することができる。そのコードが人間の行動を制約するのだから、一種の権力者である。

もちろん、権力者といっても、技術がこの世界を支配し、技術者が頂点に立つという意味ではない。本書でも「スターウォーズ的な世界観」や、Googleの中の人のちょっと無防備な「世界政府」という言い方として言及されているように、技術者の中には「どのような環境が望ましいか」という部分はナイーブな人が多い。また、何かを作ってしまってから、「その新しい環境でどのように行動すべきか」という意思決定にまで気が回らないこともあろう。技術者が何か作ればそれだけで世界が変わるというものでもないし、それができたとして世界がよりよくなるとも限らない。

だから、コンサルタントやビジネスの立場「ある環境の中ではどう行動すべきか」、および小説家や社会学者の立場「どんな環境が人間にとって幸せなのか」と相補的な役割として、「どのような環境が実現可能か」を提示することが技術者の立場であろう。*1

法を司る権力者が法案や政策提言をするように、コードを司る権力者は技術のアイデアやプロトタイプ、ベータサービスを提言するといったかんじだろうか。技術者のコードが法案であれば、本書は有識者による審議会の報告と言えなくもない。「おまえらの作ったコードで今社会がこんなことになっているけど、どうよ」というわけだ。ならば、「こんな世界もありうるけど、何か?」と示すことができたら技術者冥利に尽きるというものである。

まあそうはいっても、本書で議論されている本質的な面は、すぐに新しい世界、あるいはそれを実装するコード、を提示できるような簡単なものでもない。自分は研究者なので、まずは問題を体系化できれば、ひとまずうれしい。そこから研究の方向性が見えれば、本望である。研究するまでもなく簡単に解決できるということが明らかになれば、それもまた結構なことである。

本書の章立てにそって出発点となりそうな部分を取り上げていこうかと思う。まずは第二章からの各論の大きなところから読み直していこうと思う。

*1:ところで、「環境の可能性の提示」の役割の範囲においては技術者に好き勝手にやらせてほしいものである…。それを社会に組み込んだ帰結まで責任を負わせないでほしい…。その意味で、Winnyの件は微妙なところである。可能性の提示の範囲を越えてしまったということか…