ウェブ時代をゆく

梅田さんの『ウェブ時代をゆく』が発売されて、話題になっている。が、実はまだ本を入手できていない。
ただ、本そのものだけでなく、その受容のされ方に興味があって、ブログ界での書評・感想を読んでいる。本を読む前に感想を書くのもなんだけど、今感じたことを書いてみて、読んだ後で比べてみたい。

この本のテーマが個人の生き方に関するということで思い出すのは、梅田さんの「好きを貫け」という檄が反響を呼んだことである。

ただその時は、梅田さんの言葉の「消費」のされ方に正直一種のむなしさを覚えてしまった。もちろん、梅田さんの言葉を受け止めた人が次々と大組織を飛び出してスタートアップをつくるなんてことを期待してはいないし、それが特別望ましいとも思わない。ただ、「感動しました!」「けっ、現実はそんなに甘くないよ」という賛否のどちらにも、なんとなく他人事、あるいはどうにもならないこととして発言しているような、ブログ界を一時にぎわすネタとして言葉が消費されていくような感じがした。波が過ぎ去った後は何も変わることのない日常が繰り返されていくのであろうか。そんな感じを持たざるを得なかった。
ウェブでの反応の全体的に、今の日本の社会構造に対する諦念がベースにあって、なんか話が暗い…。もっと能天気な勘違い野郎が現れて「こんなことを始めてみたよ」という話で盛り上がれたらなあ…。*1

だから、池田氏の感じる気味の悪さも理解できる部分はある。単に内心的な変革で終わるのであれば、それはスピリチュアルなもののひとつにしかならないと。現実は一向に変わってませんよ、そんなことより制度設計をしっかり考えましょうと、彼は言いたいかもしれない。確かに、現状が変わらなければ、どんな言葉も、ゆで蛙に対する一服の清涼剤でしかない…。

ただ、いくらよい制度を設計しても、その制度を政治的に実現するにはやはり人々の行動への意思が必要になる。問題は人々にその意思が感じられないということなのかもしれない。

そんなわけで、この本には出る前から期待と不安があった。まあ勝手に心配する立場じゃないけど。

今回の本に関してブログの感想や書評をみた限りでは、けっこう自分自身のこととして受け止めている人々がみられる。たぶん本としてまとめた甲斐があったのだろうと思う。ブログと比べて、本という形式の持つ力はまだ捨てたもんじゃないということか。

不遜な言い方かもしれないが、読者の中で、今のその気持ちが具体的な行動につながっていくことを願わずにはいられない。実行してくれよと。それが何であれ。勘違いでもかまわない。というか、多様な勘違いがあってこそ、それが集まって、時代の変化に強い社会が生まれると思う*2

圧倒的な日常の繰り返しの中でその気持ちは磨り減っていくかもしれないけれど、そんな中にもにいろいろな決断の場はあって、その時々にこの本のことばが思い出される、そんな本だったらいいなあと思う。

ま、まだ読まないで語っているわけで、早く読めよという自分なのですが…。まだサンノゼの本屋に売ってないのです。

*1:まあ自分が「個々の行動が集約され、それが大きな流れとなって社会を変える」、みたいな考えに甘い期待とロマンを持っているからかもしれないが…。それに、ブログには書かないけど、個人ではやることやってるって人もいるだろうし。

*2:そのために、多様な勘違いを許容するような、ある種の寛容さがネットの倫理として保たれるべきだろうし、ウェブのシステムもそれを担保するように設計されるべきと思う。

再開の季節

久しぶりにブログを再開してみようと思う。
この夏から今までずっと、本業の研究のほうに集中していたのだった。夏の時期はインターンの学生がきたりして、職場は賑やかになる。学生さんからも刺激を受けながら、フル回転で研究のことを考える。9月に学生たちが大学に戻ってからも、11月の学会締め切りシーズンまではそのテンションで突っ走っているように思う。また社内でも来年度のテーマの検討や技術移転・紹介のための日本でのプレゼンテーションなどが専ら秋に行われる。

サンクスギビングの休暇くらいになってやっと一息つく。
今後どうするかと立ち止まって考える時期でもある。

目前の研究のことばかり考えていると煮詰まってしまうので、もっと広い視野でものを考えられるように、ブログにいろいろ書くことは続けていきたい。

GoogleのDRM征服計画

ウェブ人間論 (新潮新書)』の感想の続きとして書こうと思っていたら、サボっているうちにも事態は進んでいる。
Policing Web Video With 'Fingerprints' - WSJ

WSJによれば、GoogleYouTube著作権管理にAudible Magicのフィンガープリント技術を採用する方向で交渉しているようだ。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/e26a10b5cb96279fbd6262069f4cf99e

著作権管理(DRM)技術は大きく二つに分類される:

  • 著作物をトレースする技術(fingerprintを検知する)
    • 秘密のデータをオリジナルコンテンツに忍ばせる方法(watermark)
    • 特徴量を抽出する方法 ←ここで話題になっているのはこれ
  • 著作物へのアクセスを禁じる技術(暗号化する)

コピーワンスで自分の首を絞めている日本」の著作権保有者(というか管理業者?)からすると
前者は後者の不完全な手法と考えるかもしれない。
著作物を認識してくれてアップロードを(入り口で)禁じてくれるならともかく、
アップロードされたものから著作物を検出してくれるだけで、
自分で削除申請をしなきゃいけないそうじゃないか。
しかも、改変に強いといっても限度があり、網に引っかからないものもあると聞くぞ。


もしそう考えるなら、「トレースできればアクセスを禁じる以外に可能になること」にもっと敏感になったほうがよい。

この技術は、YouTubeにアップロードされる段階で違法コンテンツをはねるのにも使えるし、コンテンツ・ホルダーがアップロードを許可して(YouTubeなどから)ロイヤリティを取るツールとしても使える。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/e26a10b5cb96279fbd6262069f4cf99e

このfingerprinting技術は、使い方によってはYouTubeを生かすことも殺すこともできる。
もし入り口で著作権侵害物のアップロードを禁じ、大きな改変も検知できるように
広く網をかけるとしたら、ユーザのフェアユースまで侵害されてしまう。
不便になればユーザは別の方法を使うだけだ。
あなたの目の届かないところに行ってしまうだけなのだ。

アップロードされたものを著作権保有者側で判断させることにすれば、
削除申請以外の選択肢として、マーケティングツールや広告ツールを
提案することもできるわけだ。
「消すこともできますが、ちょっと待ってください。
ほら、あなたのコンテンツにこんな人たちがこんなにアクセスしてますよ。
そこで物は相談なんですが…」

Google/YouTubeがそのあたりの技術に長けていることはいうまでもない。
中の人たちは、著作権保有者がコピーされたコンテンツをYouTubeに残すほうが
合理的判断になるようにするため、いろいろな仕組みの開発に精を出していることだろう。

そこでの戦いをGoogleが征すれば、コピーを広めさせ、それをトレースすることで、
マスメディアを介さずにアーティストが作品を広めて収入を得ることも可能になっていくであろう
(いままで孫受け製作会社でこき使われていた人には福音かもしれない)。

その一方で、コピーをひとつも許さないと消しまくる著作権保有者がいてもかまわない。
でもそれは、おれのブログをブクマするな、mixiで足跡踏んだらコメント残せ、と同じような
個人の価値観の違いのひとつとなろう
著作権管理団体が一律に決めることではない)。
一部では削除厨とアップロード厨の終わりなき戦いが繰り広げられながらも、
全体としてあるバランス点に落ち着くのではないか。


そしてGoogle著作権管理事業者の現在の非効率なやり方を破壊し、
世界征服の野望にまた一歩近づくというわけだ。

メディアが対抗するには

では多くのコンテンツを抱えるマスメディア側が、
Googleにすべて持っていかれないようにするにはどうしたらよいか。

そのオリジナルコンテンツをネットで公開することだと思う。

もちろん、公開するといっても旧態依然としたサイトで登録ユーザだけにアクセスさせるのではなく、
YouTubeより簡単にアクセス可能でマッシュアップ可能にしなければならない。

そもそもオリジナルへのアクセスが不便だから、手間をかけてコピーを
アップロードしなければならないのだ。
オリジナルがいつでも参照可能であれば、そのポインタだけ共有すればよい。

オリジナルに何か付け加えたければニコニコ動画のように付加情報を別に共有し、
オリジナルを動的に引用してマッシュアップする。
ユーザは常にオリジナルにアクセスするので、ある意味著作権管理になっている。

テッド・ネルソンのトランスクルージョンの発想である。

仮にYouTubeに部分的なコピーをアップされても、
先ほどのfingerprinting技術+Googleの広告技術で検知されたコピーから
オリジナルに誘導することができる。


まあ池田さんの記事を読む限りでは、今の日本のメディアがこういうことをできるような
構造になっていないようなので、言うだけむなしいことなのかもしれないけれど。
いっそのこと、NHKは中途半端に民営化するより国営化して、すべてのコンテンツを
インターネットで参照可能にする法律を作ったほうがいいかもしれない。
公共に資すると思うんだけれど。

科学者の「俺のロマン」

元記事を読んだときのもやっとしたところが弾さんの記事で明快になった。

それでも、退屈な作業を喜々黙々と続ける人たちは、それを続けるのをやめないだろう。彼らはその先に何があるのかを知らない。しかしその先に至ったとき、どんな気持ちになるかは知っているのである。そして、その体験をした自分以外の何人たりとも、その気持ちを共感はできても共有することは出来ないということを。
404 Blog Not Found:ロマンス=99%の退屈と1%の達成感

茂木さんの言っているロマンは「俺のロマン」というロマンのインスタンスに過ぎない。


人間を深く理解することによってこそ到達できると思っていた(そこにロマンを感じていた)その地に、
グーグルが力技で乗り込んできた。

グーグルめ、物量的にやりやがって、叙情性がないなあ、というわけである*1


でもこれは「俺のロマンを台無しにしたグーグル」であって、「グーグル=ロマンティックでない」
とはならないだろう*2

茂木さんのロマンをぶち壊した物量性。そのスケーラビリティにロマンを感じる人だっているのだ。

「世界征服」を夢見て日夜万物をインデックスし続ける姿に、僕はロマンを感じる。
弾さんの言う「退屈な作業を喜々黙々と続ける人たち」は、そういったロマンを心に秘めていると思う。


未知のものに挑戦する人は、多かれ少なかれロマンティストなのだろう。でもそれはつまりは
個人的な思い入れだし、ある人のロマンの追求が別の人のロマンをぶち壊すことだってあろう。

Googleが茂木さんのロマンを壊したように、
Googlerのロマンをぶち壊してやりたいというところにロマンを秘めた人たちだっているだろう。


そしてGooglerが「ロマンティックでない」とぼやく日も来るかもしれない。


追記:異なるロマンの競合を表すために「茂木さんのロマンを壊した」と便宜的に書いたが、
こんなことで本当に茂木さんのロマンが壊れるというわけではない。
そもそも、人工知能的な分野では深いアプローチが物量的アプローチに
負けるなんてことはこれまでいくらでもあって、たとえば自然言語処理なんかで顕著である。
茂木さんは脳科学といっても計算機科学研究所に所属しているので、そんなことを知らないはずがない。
梅田さんのコラムにあるように、「アジった」のだと思う。そして僕も含め、釣られる人が大勢出たというわけだ。

*1:ロマンを壊された方におかれては、グーグル的なアプローチでは到達できないことはいくらでもあるはずなので、そこを見極めて目標修正されたい

*2:まあだから梅田さんは「「ロマンティックでない」グーグル」と括弧つきで表現したのだろうけれど

情報大航海プロジェクトはどんなサービスを採択すべき?

情報大航海プロジェクトの委託先として、NTTドコモ日本航空インターナショナルの2社が採択された。
それに対する批判的記事:

にしてもドコモも日航も本当に必要なサービス開発なら10億くらいポンと投資できるのに.なぜ財政資金を投ずる必要があるのだろう.投資できるのに投資しないというのはリスクを負いたくないだけではないか.民間が負うことのできないリスクを政府が肩代わりして技術革新を加速するというのは国プロの王道だが,民間が負えるのに負わないリスクを政府に肩代わりさせるというのは似て非なる構図である.
情報大航海は大山鳴動して鼠一匹 - 雑種路線でいこう

「本当に必要なサービス」(誰にとって必要?)と「企業が自分で投資できるサービス」(投資から期待されるリターンは?)
が違うという点には注意が必要だと思う。
また、額面が小さければすなわち「民間が負えるリスク」とはならないであろう。
たかが10億されど10億。大企業内でもそれは結構大金だ*1
ここは投資の規模ではなく性質の問題であろう。誰がどうメリットを受けるのか?
企業が自前でやって取り分は全部企業になるか、政府の補助を受けて、成果は公共のものとするか、あるいはそのプロジェクトには投資をしないか、
どれを選んだら得になるか企業側も国側も双方で考えなければならない*2

まあ、今回の採択プロジェクトが妥当なものかはもっと詳しい情報が必要だが…。



一般論から言うと、大企業が独力で革新的なサービスを立ち上げるのには困難がある。
情報のサービス化は破壊的なインパクトを持ちうる。その結果世の中は便利になっても
企業側は「売り上げ」の低下を招くかもしれない。仮に高い収益性が見込まれても、売上高が
現行事業に比べてかなり小さいと、なかなか投資の決断は下されない。

通常は、こういった破壊的なものは新興企業がチャレンジャーとして立ち上げていくというのがセオリーである。

ただ、こういう新興プレーヤーに投資するならば、官主導的アプローチよりもシリコンバレー的アプローチが有効であろう。


今回、情報大航海プロジェクトが大企業に委託するのは別の理由があると思う。

情報大航海で言うところの「Google対抗」というのは、性能の勝ったもうひとつのGoogle
作ることではなく、Googleにできないこと(領域)をやりたい、という点であった。そのひとつとして、
インターネットでは見えないダークマター(企業内で眠っている情報など)に光を当てようとしている。
その観点からすれば、委託先としてドコモや日航のようにインフラを持っている
(がゆえにデータを持っている)大企業が選ばれるのは自然といえる。

日航はさておきドコモのやろうとしている位置情報を活用したリコメンデーション技術は,加入者の個人情報保護やコンテンツプロバイダに対する公平性確保などの観点で慎重に扱うべき点がいくつもある.役所にやるべきことがあるとすれば,いまどきWeb 2.0バブルで新興企業でさえ投資できる数億円の補助金を売上数兆円の巨大企業につけることではなく,登場の予想される新たなサービスに対する消費者保護と公正な競争条件の確保へ向けて必要な論点整理と法制度整備ではないか.
情報大航海は大山鳴動して鼠一匹 - 雑種路線でいこう

AでなくBをやるべき、という論だが、AとBが排他的とか競合的でないかぎり、Bが重要だということはAをやるべきでないという理由にはならない。
必要ならばAもBもやればよい。

特に今回の場合、A(サービス立ち上げへの投資)がB(法整備)のために役立つのではないか。

確かに法整備は必要だけれど、これから構築されようとしている新しい
サービス・アーキテクチャーを知らないままに変な規制を設けられてはたまらない。

その意味で、官民共同でサービスの立ち上げを体験していくのは悪くないと思う。未来を予測する
一番の方法は自分で未来を作ることだ、とまでは言わないが、行政にかかかわるものが
バンテージポイントに立つということは重要であろう。
もちろん、このためには単に委託して終わりというわけには行かない。丸投げではなく
ちゃんとフォローしてもらいたいと思う。

ドコモのやろうとしていることは技術的には国の援助なしでも自前でできそうにも思う。
でも、個人情報保護などのセンシティブな課題がそこにあるからこそ
営利企業に任せた場合のリスクを考えて国プロとして採択したという判断も成り立ちうる。


まあいずれにしても、ここに書いたことは外部のものの推測に過ぎない。
情報大航海プロジェクトは決定のプロセスについてもっと大公開すべきだ。
メディアを通じて情報発信している努力は伺えるが、ブログ界でもっと突っ込んだ
情報が流通すればもっとよいと思う。
まあ企業情報や個人情報を扱うプロジェクトとなるとセンシティブな問題もあるのは承知の上ですが。

ベールに包まれていた情報大航海プロジェクトについて,徐々に情報が出始めている.
情報大航海は大山鳴動して鼠一匹 - 雑種路線でいこう

といわれてますよ。本記事ではこの指摘が最も重要かも。


というわけで八尋さん、ブログ始めませんか?

*1:日本の大企業内でのリスクをとりたがらない体質(というか構造的問題)はもちろんあるのだけれど、それはまた別の話。

*2:一般論として、国プロの予算が企業としてやるべき投資戦略(研究開発戦略などをふくむ)をゆがめてしまうという弊害はある。これは別の機会に論じたいと思う。

研究者になりたい皆さんへ

好きなことを意識的かつ戦略的にやるという梅田さんの記事をうけて、ではどうすればよいかという、研究者を目指す人向けの記事が目を引いた:

http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20070403/1175617089

では私からも、研究者になりたい皆さんへ。
今の環境でサバイバルするのが好きを貫く唯一の方法ではない、と主張したい。

さて、上記のブログ記事ではまず、藤森かよこ先生の記事
藤森かよこの日本アイン・ランド研究会-アキラのランド節
が引用されている。
女性研究者のセクハラの問題に関連して、「女性研究者の会」が研究を語り合う場から
セクハラ撤廃運動のような運動団体化してしまったことにうんざりするくだりがあって、

天才でもないし、世界で10の指に入る大学者でもないような凡庸な頭脳の持ち主が、好きなこと勉強して食ってゆきたいと思うのだから、愚劣な人品卑しい人間にうんざりするほど遭遇するなんて程度のことを経験するのは、当たり前です。正当なことです。それぐらいの不如意を引き受けてこそ、まっとうに忍耐力のある人間になれるってものです。

さらに

女性研究者のみなさん、どっちの道を採るか、ちゃんと真面目に選びましょう〜〜いったん選んだら、迷いは捨てましょう〜〜学問の世界を頭脳明晰さと業績の質で生き抜けない場合は、権謀術数と打算と色香で生き抜くか、どうでもいいの!食ってゆければいいの!好きにやるの!と生き抜くか、どちらかです。どちらも選べないような優柔不断で潔くない中途半端な甘ったれた奴が、ギャアギャア騒ぐんだよね。

と述べている。

藤森かよこ先生の原文の「愚劣な人品卑しい人間」も「中途半端な甘ったれた奴」も「どっちもどっち」だ、
という趣旨には賛同したい。
しかし、だからといって、このブログ記事のように

そして、「意識的で戦略的に生きる」とは、要するに権謀術数と打算と色香で生き抜くか、どうでもいいの!食ってゆければいいの!好きにやるの!と生き抜くかのどちらかの生き方を望むか、なのです。

と、「意識的で戦略的に生きる」方法がこれだけというのは(釣りとしてはよいけど)ちょっと結論を急ぎすぎだと思う。

あなたもその「ろくでもない奴」になるかもしれない

学問的業績でなく処世術に長け、嫉妬深くプライドだけで生きている「ろくでもない奴」ら。

ここで、男か女かということは本質的な問題ではなく、その職場が閉鎖的なタコツボ環境に
陥っていることが根本的な問題なのではないか。

労働に市場性がない、つまり、やっていることに「つぶしがきかない」。

つぶしがきかなければ、自分のポストを確保するのに必死にもなる。学問的業績といった
本来の能力ではなく、権謀術数に長けて嫉妬深く執念深い人が生き残っていくのも無理はない。

そんなところだからこそ、余計に女性が差別されるのではないか。

これは日本の大学という場では顕著なのだろうが、お役所でも大企業でも、程度の差こそあれ、
組織の中に吹き溜まりのようにできる環境かとおもう。

藤森先生のように、そういった環境を豪快に走り抜けて自分の業績を
つみあげられるのであれば、それもひとつの手であろう。それができるのであれば。


でも、その環境で生き残るため権謀術数をめぐらせているうちに、
あなたもその「ろくでもない奴」になっているかもしれない。


研究者になりたい皆さん、特に女性の皆さんへ。
自分が弱者だとか疎外されているだとか、男だとか女だとかにかかわらず、
誰でも環境によって「ろくでもない奴」になることがあります。それはご注意ください。
藤森先生がどっちもどっちと批判される「甘ったれた奴」も、
結局はそういった環境にとりこまれてしまった人たちだと思います。

そこから自由になるには自分の「好き」をどうやってつぶしの利くものにしていくか、
そここそに「意識的で戦略的」であることが大事だと思う。


研究者になりたい皆さん。
学問の世界を業績の質で生き抜けない、と結論付ける前に、
もう一度自分の「好き」とはなんなのか、正面から向き合っていただきたい。

そして考えていただきたい。

その環境の中(たとえば今いるあなたの大学)でしか、「好き」を貫けない、
本当にそうだろうか?
今こだわっている方法だけがあなたの好きを貫く方法ですか?

「好き」の再パッケージ化:つぶしのきく「好き」を求めて

シリコンバレーにいるといろいろな起業家の方とお話しする機会もあるのだが、
そこでわかるのは、ベンチャーも、ただ好きなことを続けていたらたまたまそれが
当たったというような暢気なものではないということだ(当たり前なのだけど)。

そんな中で感銘を受けたのが、起業がうまくいかなかったときにそれを「再パッケージ」
する、そのたくましさだ。

たとえば自分が新しいアイデアなり技術なりを持っていたとする。
自分自身は、これはいける、これはすごい、と確信するわけであるが、
それでも資金調達できなかったり、実際にトライアルしても伸び悩んだりする
わけである(というかそのほうが多いよね、普通は)。

で、そこですることは、単にあきらめてしまうでもなく、同じことに固執するでもない。
自分のアイデアを再定義することだ。今までこれはウェブアプリのインターフェース技術
だと信じ込んでいたが、ちょっとまてよ、こう考えてみたらどうだろうか?みたいな感じである。
最初の失敗から学んで、何が問題で何が問題でないのか、自分の持つ技術の本当の強みは
何なのか、理解を深めた上で、いま自分の持つものを最大限に生かして問題を定義しなおす。

その結果、非常に短期間にまったく違った(ように見える)事業プランをたたき出し、新しい
包み紙と新しいリボンをつけて売りに出すわけである。

こういうことをシステマティックにやってこそ、不確実性の中でチャンスを最大化できるのだ。

梅田さんの言う「意識的で戦略的」なプロセスであり、まさに「サバイバル」なのだと思う。


これを「好きを貫く」というコンテクストで考えると、「再パッケージ」とは
自分の「好き」と向き合い、それを捕らえなおし、つぶしの利くものに再定義する
という過程だと思う。

「好きを貫く」には、ただやりたいことを漫然と(あるいはがむしゃらに)やる
ことでも、自分探しのために漫然と(あるいはがむしゃらに)やることを変える
(転職とか研究テーマ変更とか)ことでもない。

  • まず、なぜ自分はそれが好きなのか?その根底にある要素は何か?問い直してみる。
  • そして、一般化して考えてみる。自分の「好き」の根底にある要素は、他の分野にも共通するようなものか?
  • または、特殊化して考えてみる。それを切に必要としている人(あるいは分野)はどこにあるだろうか?

そういうふうに考えていくと、より自分の「好き」を深く理解することができ、
新たな活路が見出されるのではないか?

「理系」の分野であれば、ある分野の技術が他の分野でおおきく活路を見出すことはよくある話だ。
(たとえば文字列検索技術が遺伝子情報処理技術に活用されたりとか)
でも、いわゆる「文系」と呼ばれる分野だって、再パッケージの仕方によっていろいろな活路があると思う。
たとえば、何とか総研のようなところでコンサルティングという道もあるかもしれない。
そこには大学とは違った「研究職」の醍醐味がある。

さいごに:エリートだったら何か?

「梅田さんはエリート中のエリート」だから、自分とは違うのだというところで思考停止
してしまっている言説をよく目にする。

まあ梅田さんを「エリート中のエリート」と言う人は、上には上があって、梅田さんだって
(というか誰でも)この人はすごいなあと規範(ロールモデル)に仰ぐ人がいるだろうことに
思いが至らないのかもしれない。

梅田さんだって、いま結果的に成功している(かどうかは彼の成功の定義にもよるが)のであって、
なにか約束された道を歩んできたわけではないでしょう。日本で生まれ育った人が組織から離れて
別の国で独立してやっていくに至るのに何の葛藤もなかったと思う?
でもそんな苦労談を披露して共感を得たいのではなく、プロフェッショナルとしてそれを一般化して
サバイバル論として議論したいわけでしょ?


自分も、経歴からすれば「お前はエリートだから」と言われてしまうかもしれない。
おまえはエリートだから好きな研究ができてよかったな、でもうちの大学は違う、とか言われる
かもしれない。そういうふうに取られると、ここで何を書いてもしょうがないのだけれど…。

いずれにせよ、「エリート」だって道に迷い、サバイバルのために必死なのだ。
どんなところでも、「好きを貫く」には将来の不確定性の中でもがいて生きていくしかない。

エリートだろうが何だろうが、理系だろうが文系だろうが、あなたのための「解」が、
そのまんまの形でどこかに転がっているわけではないのだ。
あなたと違うのは当たり前。自分で考えるしかない。他人の言うことは所詮そのための
材料に過ぎない。


まあありきたりの結論だけど、しょうがない。

日本のソフトウエア生産性と品質は世界最高水準?

日本のソフトウエア生産性と品質は世界最高水準〜なぜ日本のソフトは国際競争力がないのか。 - 木走日記

「日本人技術者の生産性の高さ、成果物品質の桁違いの高さは、何人ものアメリカの学者の科学的調査で報告されている」というスティーブ氏の指摘ですが、私の知るところでは代表的なのが、マイケル・A. クスマノ教授 MIT(マサチューセッツ工科大学)の調査報告などがあります。

IT技術者へのエールを送っているところに水を差すつもりはないのだが、引用されていた表が気になったので原著論文を読んでみた。

Michael A. Cusumano, Alan MacCormack, Chris F. Kemerer, Bill Crandall: Software Development Worldwide: The State of the Practice. IEEE Software 20(6): 28-34 (2003) (abst, pdf)

論文自体は、各国の生産性や品質の優劣をつけるのが目的ではなく、環境や開発手法の違いなどと関連させて、それぞれの地域の特性を見出そうというものである。

読んでみて思ったこと。

確かに、狭い意味での生産性や品質は高いかもしれないけれど、
逆に「なぜ日本のソフトは国際競争力がないか」という特性が浮き彫りにされている。

見た目の品質の高さは、技術者の優劣ではなく米国と日本で求められるものの違い
(それによる開発手法のちがい)に起因しているようだ。

プロジェクトの性質の違い

まず、収集されたデータはソフトウェア開発会社の2001-2002の間の成果を自己評価してもらったものだ。
それぞれプロジェクトの性質が違うものをまとめているので分散が大きく、統計的に優位な違いを論じられるものではないと論文では指摘している。

論文では、プロジェクトの性質(開発するソフトウェアのタイプ、要求される信頼性、ハードウェアプラットフォーム、顧客のタイプ)がまとめられている。

調査された範囲では、日本、米国ともにプロジェクトのつくるソフトウェアの6割は「Custom or Semicustom」、つまり顧客の要求に応じた受注生産であることに注意したい。

国際競争力が関係するようなパッケージソフトウェアとは状況がだいぶ違うと思う。

プロジェクトで要求される信頼性(reliability)のレベルを高・中・低でランク付け(あくまでも自己申告だが)したばあいに、日本のほうが高信頼性を要求されている。
また、微妙ではあるが、日本は他国よりメインフレームの案件が多かったことなど、各国で求められているプロジェクトの特性がちがっている。

開発手法の違い

また、プロジェクトでどのようなプラクティス(開発手法)が採用されているかもまとめてあって興味深い。

特に、ウォーターフォール型の開発に必要な

  • Architectural specifications (印83.3, 日70.4, 米54.8),
  • Functional Specificaitons (印95.8, 日92.6, 米74.2),
  • Detailed designs(印100,日85.2, 米32.3)

の採用率の違いに論文は注目している。

The major difference was in the US, where specifications were used less often across the board.

米国では詳細設計を行っているのは32.3%しかない。

著者らによれば、この傾向(開発中に変化が必要なところでは詳細設計は時間の無駄なので、機能仕様から直接コーディングに入る)は
(執筆時から)10年前にマイクロソフトの開発に見られた傾向で、これが米国先般に普及していることが示唆される。

また、米国に比べて日本ではsubcycleの採用率が低く、
ウォータフォール型の開発がまだ日本では主流であることを指摘している。

Less than half the Japanese projects used subcycles, indicating that a waterfall process is still a popular choice in this region.

パフォーマンスの違い

さて、問題のパフォーマンスであるが、もとのブログ記事で引用されていた日本語版では
「一人当たりのプログラマーが月当たり記述するコード数」という記述があった。
ここで「コード数」とは No. of new line of code (LOC)、つまり行数のことである。
プログラミング言語やプロジェクトのタイプなどを考慮せずに集計した値である。

これでパフォーマンスの優劣をはかるのには限界があることは論文でも言及されており、
同一組織内でのプロジェクトの比較には使えるけど、組織間では限界があるとしている。

さて、論文によれば、日本と米国を比べた場合のコード生産量の高さと不具合数の低さは
90年代の調査でも確認されたことだそうだ。

日本の(狭い意味での)品質の高さは継続的に確認されて、定評のあるものなのだ。

ただし、これは開発の目的の違いによるものだと論文では指摘している。

US programmers often have different objectives and development styles. They tend to emphasize shorter or more innovative programs and spend more time optimizing code, which ultimately reduces the number of LOC and increases efforts.

つまり、米国では革新的なプログラムをすばやく生産することに重きが置かれている。

論文では、日本と米国とどちらのパフォーマンスが優れているかといった絶対的な評価をするのではなく、
環境や開発手法との兼ね合いを議論している。

具体的には、ウォーターフォール型の開発が実際に不具合の少ないコードを生んでいることを見て取っている。

ただし、論文でも指摘しているとおり、それがビジネス的な成功と必ずしも一致しているわけではない。

Yet, in a business sense, locking a project into a particular design early on might not produce the best product in a changing market.

また、コードの生産性ではビジネス的パフォーマンスを図るのには適さないだろうが、かといって、
経済的パフォーマンス情報(収益とか)を多様な目的のプロジェクトに対して比較調査することは
不可能に近いとも述べている。

日本でイノベーションは求められているのか?

さらに、論文ではこんなことも言われてしまっている(残念ながら事実だが):

It is important to remember as well that no Indian or Japanese company has yet to make any real global mark in widely recognized software innovation, long the province of US and a few European software firms.

日本からは世界に広く認められるようなソフトウェアのイノベーションはまだ見られない。

確かにそのとおりとしかいえない。少なくとも2003年時点では。

でもそれは技術者個人の能力の差ではなく、単に求められていることの違いに過ぎないかもしれない。「下らない日本独自の商習慣」はその象徴的なひとつということであろう。

日本でもイノベーションが求められているところがあれば、日本の技術者にはそれができる、と思う。

それが日本では求められていないのだったら、イノベーションの場を求めて移り住むのというのも手である。ミクロ的には(個人レベルでは)問題は解決されますよ。そんな人がシリコンバレーにどんどん来ればいいと思う。そしてそれが結局は日本の国際競争力の向上につながればいいと思う。